あるにもあらず 過ぐるわが身は

東欧・北欧・中近東など世界の60's Beat/Psych、その合間にコミックなどを紹介しています。 こっそりとやっていますので、こっそりとお越し下さいませ(笑 


Kogudus 1972:(左上から時計回りに)Jüri・Peeter・Toomas・Ants


今回は、70年代初期の旧ソ連時代のエストニアのグループの中でも、個人的にベスト5の一つと思っているKogudusを紹介します。

Kogudusとはエストニア語で「教会」という意味で、71年6月、エストニアの第2都市タルトゥで結成。
オリジナル・メンバーは、タルトゥ大学の学生だったJüri Elken(B.Key.Vo)・Ants Matiisen(Ds.Vo)・Toomas Taul(G.Vo)・Peeter Väljak(Vo.G)の4人で、後年交代したメンバーも含めて、彼らの故郷の南部の港湾都市ペルヌで活動していた3つのグループ、Nemo(Jüri・Toomas)・Syrius(Jüri)・Viking(Peeter)に在籍したメンバーを中心に編成されていました。
彼らはTrafficのように、同じアパートの部屋で共同生活を送りつつ、タルトゥ大学のクラブのパーティーなどで演奏。

そんな彼らの評判を聞いてか、72年5月、ETV(エストニアTV)のスタジオで初のレコーディング。
5月9~11日の3日間にかけて行われたセッションには、元Väntorelのリーダーで、かつてVikingにも在籍していたAndres Valkonenが参加、そしてレコーディングの前日に運悪く40度の高熱を出して演奏できなかったJüri Elkenの代わりに、Andresの弟Jüri Valkonenがベースをプレイし、彼らのオリジナル5曲が収録されました。

また、このセッションが後のU.D.Aの結成を匂わせているのが興味深いところです。

同年6月には、エストニア、そして当時のソ連内で初のオープン会場のフェス、エルヴァ・ソング・フェスティヴァルにFixらと出演し、スタジオ音源に比べて幾分ワイルドなその演奏に聴衆は熱狂しました。

a2157.jpg
Kogudus live in Elva Song Festival 1972

11月にドラムスのAntsが脱退し、彼らの源流の一つNemo、そして一時期Fixにも在籍したValdur Tamm(Ds.Vo)が加入。
73年に入って、演奏面の強化のためかNemo・Vikingに在籍したRao Laidsaar(Key.Vo)が加入。

しかし、74年に入った頃にはメンバー間の音楽性が分かれるようになり、再びETVで録音を残すものの、同年3月に解散。

Peeter VäljakはFixに76年まで在籍し、Kogudusの同僚Jüri ElkenとRao Laidsaar、そしてAndres ValkonenらとU.D.Aを結成しています。

そして2013年6月23日、ヘルシンキの自宅のTVの前で、椅子に座ったまま亡くなっているPeeterを家族が発見。
検死の結果、おそらく7月10日頃に亡くなったのではと言うことです。
62歳の若さでした。


【“Kogudus [Estonia]”の続きを読む】 このページのトップへ

New Soulmen 1968

今回は以前書いたBeatmen/Soulmenの記事の続きで、Dežo Ursinyのアートロック期70~73年を紹介したいと思います。

Soulmenのあっけない解散がよほど悔やまれたのか、Dežoは同年夏にまた新グループを結成。
その名も「New Soulmen」(笑
「そのまんまかよ!」と思ってしまいますが、DežoのSoulmenへの執念を感じさせますね。
メンバーはDežo(Vo.G)・Fedor Letňan(B.Vo)・Peter Mráz(Ds)、そして後にModusに参加するJán Lehotský(Key)の4人。
結成してすぐにラジオ用に2曲をレコーディング。
Soulmenよりも少しサイケ度が上がり、フリーキーな印象に変化しています。

しかし、ライヴもしないうちにグループはあっけなく解散。
68年の夏といえば、プラハをソ連の戦車が蹂躙した頃。
当時のチェコスロバキアでは、その影響で無気力になったり鬱になったりする人が続出したそうですが、彼らもまたそうなってしまったそうで、解散と言うよりは自然消滅という感じだったようです。
ただ、New Soulmenでの短い活動は、彼の次のステップへのきっかけになったのは幸いでした。

70年、Dežoは元Blues FiveのJaroslav Filip(Key)と、Marcel Daniš(B)とSoulmen時代の盟友Vlado Mallý(Ds)の4人でProvisoriumを結成。
New Soulmen時代のサイケ路線を発展させたような、R&Bとジャズを根っこに持つアートロック/プログレ路線を展開させていきます。
a2136.jpg

Provisorium 1970 :(LtoR)Vlado・Jaroslav・Dežo・Marcel

しかし、72年6月にSupraphonでのアルバムのレコーディングが決定したものの、その直前にグループは崩壊。
Dežoと残ったJaroslavは、Flamengoにバッキングを依頼してレコーディングを無事完了させ、アルバムは73年にリリースされました。

その後、DežoはProvisoriumとBurčiakというバッキンググループ名を使ってソロとして活動していき、10枚強のアルバムを残し、95年にガンで亡くなっています。

CD紹介はまた後日。



このページのトップへ

Keldriline Heli 1971:(LtoR)Härmo・Viljar・A.Talvik・A.Valkonen・Logle・Tiit・Ants

今回は初のエストニアのグループ、短命だったものの素晴らしい音源を残したビートサイケグループ、Väntorel(Keldriline Heli)を紹介したいと思います。

70年夏、Andres Valkonen(Key)・Andres Talvik(Vo)の2人によってタリンで結成。
ほどなくしてHärmo Härm(G)・Tiit Plaks(Ds)が加入、さらに最初のリハーサルの時に、Valkonenの地元の友人Logle Alpius(Vo)・Viljar Rähn(G)が加わり、新聞の募集広告を見たAnts Rand(B)が加入してメンバーが揃いました。

結成当初はKeldriline Heli(Cellar-Like[basement] Sound)というグループ名で活動していたそうで、Brian Epsteinの著書「A Cellarful Of Noise」と、彼らがリハーサルで使用していたタリン大学の地下室(sellar)をもじったものだとか。

彼らのレパートリーは、ほんの少しのカバーを除くほとんどがメンバーのオリジナルで、他のエストニアのグループよりもシリアスな空気を意識していたそうです。
また、グループのイメージしたサウンドを再現するため、Härmoによって自国製のRetacordオルガンを改造したり、自前でアンプを製作したりもしたそうです。

ロングヘアーにサイケファッションに身を包んだ、(ソ連としては)反社会的なスタンスの彼らの人気が高まるにつれて、すぐに当局からの圧力がかかるようになりました。
71年春のコンサートの後、彼らはコンサートの開催・リハーサル場所の使用、そしてKeldriline Heliというグループ名の使用を禁止されてしまいました。

ソ連では、当局からの公認を得たグループのみが、厳しい制限の元でコンサートや楽曲の録音・レコードの販売を許可されており、アマチュアのグループは音楽的な制限がない代わりに、コンサートなどで利益を得ることは禁止されていました。

ところが、エストニアではソ連の強引な吸収への反抗心もあってか、コンサートでの制限などがかなり甘かったようで、ソ連内としては驚くような、西側のスタイルをストレートに出した活発なミュージックシーンがありました。
特に驚かされるのが、アマチュアのグループの演奏をテレビ・ラジオ局がレコーディングを積極的に行っていたことで、多くのグループのかなりの録音が残されていることは特筆に価すると思います。
また首都タリンでは、海を挟んだお向かいのフィンランドの電波が受信できるため、テレビやラジオから情報をストレートに得ることができたことで、本格的にカバーしたり歌詞を自国語に書き換えたりなど、モスクワとは段違いのレベルで再現できていたことも、エストニアのグループの特色といえます。

そのエストニアで当局に目をつけられるということは、かばいきれないほど彼らが悪目立ちしたのだと思われます。

彼らはグループ名を変えて活動することにして、自作曲の「Ma Olen Nahktiibadega Väntorel(I Am A Barrel Organ With Leather Wings)」から取ったVäntorel(Barrel Organ(脚に車輪のついた、手回し式の移動式オルガン))と変名し、この曲をアンセムとして取り扱うようになりました。

Väntorelと名乗るようになった71年の夏ごろから、コンサートができなくなった代わりとして、エストニア国内のダンスパーティーなどで演奏するようになりました。

9月に彼らはレコーディングの機会を得ました。
グループの厳しい状況を考えると、彼らがレコーディングを行って音源を残すことができたのは、奇跡的な幸運だったといえます。

変名後も続いた当局からの圧力や、創作によるストレス、それらはメンバー間の友好関係にひびを入れていきました。

そして71年の終わり、Väntorelは短い活動に休止符を打ちました。


Read more↓



【“Väntorel(Keldriline Heli) [Estonia]”の続きを読む】 このページのトップへ
a2114.jpg
Moğollar 1968

60年代のサイケに関心のある方なら、トルコのビート/サイケ編集盤「Turkish Delights」のジャケ写にも使われた、こののどかかつ怪しい(笑)写真を見たことがあるのではと思われますが、今回はアナトリアン・サイケの重要なグループMoğollarの67~72年の前半期を紹介したいと思います。

67年、当時Silûetlerに在籍していたAziz Azmet(Vo)・Murat Ses(Key)・Tahir Nejat Özyılmazel(G)・Aydın Daruga(Ds)の4人に、Vahşi KedilerのメンバーHaluk Kunt(B)を加えて、イスタンブールで結成されたのがMoğollarでした。

トルコのグループなのにMoğollar(Mongols)とはこれいかにという感じですが、結成時にAnimalsやRolling Stonesみたいなワイルドなイメージのグループ名にしたいと、メンバー同士で相談した結果これになったそうで、上記の画像のようなモンゴル羊のベストとレッグウォーマーを着用したステージファッションもそこから来ているそうです。
しかし、結果的にワイルドと言うよりは、怪しいヒッピーにしか見えなくなっていますね(笑
まあ、いろんな意味で他のグループとイメージが重ならない、強烈なインパクトを得たという意味では成功だったと思います(笑
ただ、この変な格好をしていたのはごく初期の68年までのようです。
たぶん、ステージで演奏するのに暑苦しかったんじゃないでしょうか(笑

余談ですが、前述のSilûetlerはMoğollarの前身と言われ、実際Moğollarの初期音源と一緒に収録された編集盤も存在します。
しかし、SilûetlerというグループはギターのMesut Aytuncaがリーダーのインストグループで、基本的にグループの主導権は彼が持っており、実際Moğollar結成後も、一時期活動停止していたもののSilûetlerは存在していました。
また、あまり詳しいデータが見つからなかったのですが、Mesut以外のメンバーの入れ変わりが激しかったようで、Aydınは66~67年、後の3人は67年のみの在籍で、同年の録音Silûetlerを前身グループとして捉えるのは、個人的には微妙な気分です。

ちなみにAzizとMuratは、Silûetlerに加入する前はMeteorlarというビートグループに在籍しており、彼らはDeccaからシングルを2枚リリースしています。

結成から程なくして、Tahirが自身のグループを結成するために脱退、シンガーのSelçuk AlagözのバッキンググループのメンバーだったCahit Berkay(G)が加入、さらに
Halukが脱退し、ApaşlarからHasan Sel(B)が加入しています。

またドラムのAydın Darugaは68年いっぱいで脱退し、Selçuk AlagözのところからEngin Yörükoğluが加入とほとんどのデータに書かれていますが、68年のレコードデビュー時の写真や記述には既にEnginがおり、実際の交代は1年早かったようです。

a2104.jpg
Moğollar 1968:(左上から時計回りに)Murat・Aziz・Cahit・Hasan・Engin

68年2月、Sayanから1st/2ndシングルをリリース。
この2枚のシングルは、両方のシングルの歌詞が印刷された同じスリーブだったので、おそらく同時かほぼ同時にリリースされたのではと思われます。
4月にはAltın Mikrofonコンテストにも参加し、コンテストのレーベルから3枚目のシングルをリリース。
その後Sayanから4枚目のシングルと、デビューしたての68年に4枚ものシングルをリリースしていることからも、グループへの期待と評価が高かったことを伺わせ、実際にも彼らは瞬く間に認知されていきました。

68年10月にはイスタンブールで初の単独公演が実現し、彼らの存在はヨーロッパ諸国にも知れ渡って行ったようです。

初期の彼らは、当時のトルコで主流となっていた自国のトラッドやそのフレーズをアレンジしたアナトリアン・ポップと呼ばれていたスタイルに準じるものでしたが、他のグループよりもそのサウンドには穏やかな空気があり、AzizのまったりとしたボーカルとMuratのソングライター/アレンジャーとしての優れた資質、そして安定した演奏力による、ゆるめだが踊れるサウンドが彼らの個性でした。

69年にはトルコ国内を巡るツアーを行い、その経験は自身のルーツを再確認するきっかけになりました。
自国の民族楽器を演奏に取り入れ、さらにトラッドのレパートリーを集めて吟味したりと、その意識は徐々に彼らの音楽性に独自の深みを与えて行くことになります。

同年、Hasanが脱退し、Erkin Korayのバッキングを勤めたこともあるTaner Öngür(B)が加入。
TanerはAzizとMuratとはMeteorlar時代からの知り合いだったそうです。

a2080.jpg
Moğollar 1970:(左上から時計回りに)Aziz・Murat・Taner・Cahit・Engin

さらに70年7月にはAzizが脱退、Bunalımlarや3 Hürelらをバックにシングルをリリースしていきました。

リードボーカルを失った彼らは苦境に立ちますが、シンガーのErsenとジョイントし、シングルをリリース。
しかし、Ersenとの関係は長く続かず、8月の終わりにはジョイントを解消しました。

その直後、Moğollarはパリへ向かい、CBSと3年契約(後に単発で終わった模様)を結び、早速シングルをリリース。
この時の滞在で、彼らはアルバム用のレコーディングを行い、翌71年に1stアルバムとしてフランス・ドイツ・UKなどでリリース(本国では72年にリリース)され、高い評価を得ます。

71年、今度はBarış Mançoとジョイントし、Mançomoğollarとしてフランスとベルギーを巡るツアーを行い、さらに帰国後も国内を巡る大きなツアーを行っています。
しかし、Barışとの関係も長く続かなかったようで、それらのツアーとシングル2枚の成果に終わりました。

a2106.jpg
Mançomoğollar 1971:(左上から時計回りに)Taner・Barış・Murat・Engin・Cahit

さらに71年7月、Enginが突然脱退しパリに向かい、結婚して定住する事になりました(75年に復帰)。
残された3人は、Mavi IşıklarのドラマーだったAyzer Dangaを加えて活動を再開。

72年8月、今度はMuratが脱退。
グループにとって重要なメインソングライター/アレンジャーだった彼の脱退は、グループに激震を走らせましたが、この3人で活動を続けることに。

以後は簡単に。

残った3人で、Ersenのシングルに今度は彼のバックとして参加。
73~74年にはCem Karacaと活動を共にし、75・76年には再びパリ録音によるアルバムをそれぞれ1枚ずつリリースして、76年をもって解散しています。

93年にCahit・Taner・Enginを中心に再結成。
10年にEnginが亡くなりましたが、Cem Karacaの息子Emrahらを加えて、現在も活動を続けています。

現在、MuratとCahit・Tanerの関係は良くないようで、MuratはMoğollarの名称をわざわざ商標登録、MoğollarのオフィシャルサイトにおいてMuratの名前が一切表記されていないこと、現在のMoğollarのレパートリーに、Muratが作曲・アレンジなどに関わった曲が一切演奏されていないことなどからそれが伺えますが、今後もこのままの状態でいるのはどうかなと思います。



【“Moğollar[Turkey]”の続きを読む】 このページのトップへ

Bunalımlar 1970

4月も終わりになって、今年初の更新とは(苦笑
どう更新するかをを少し変えて行くつもりなので、今年も空白が多くなる可能性が高いです。
でも、今回と5月のうちとで続けて更新する予定で、実際次回分の記事もほぼ書き上げてあります。

今回は次回の記事を書く流れで書き上げたもので、ただでさえ怪しげな空気の漂うトルコ勢の中でも、随一のアンダーグラウンドさを持った伝説のグループBunalımlar(Grup
Bunalım)を紹介したいと思います。

Bunalımlarは、69年の夏にAyet Aydın Çakus(G.Vo)・Ahmet Güvenç(B)・Hüseyin Sultanoğlu(Ds)の3人でイスタンブールで結成。
トルコ3大ロック怪人の一人Cem Karacaがプロデューサー・マネージャーを担当していたそうで、それが結果的にグループに貢献と混乱の両方をもたらすことになります。

同年、Türkofonから1stシングル「Taş Var Köpek Yok / Yeter Artık Kadın」をリリース。
A面は自国の6世紀のサンスクリット語の詩を元にAydınとCemによって書かれた、楽曲・演奏共にジミヘンの影響を感じさせるサイケハードで、B面は「Get Out of My Life,Woman」のIron Butterflyのバージョンを参考にしたカバーに、Cem Karacaがトルコ語詞をつけたもので、当時まだヘヴィなサウンドのグループがいなかったトルコでは、このシングルはいろいろ衝撃を持って迎えられたようです。

Aydınは後に「アナドル・ロックのスタイルは好きじゃなかった」と述べたそうですが、Bunalımlarが関わった6枚のシングルのうち、当時彼らが本当にやりたかったのはこの1stシングルの2曲のような、アンダーグラウンド臭の強いハードサイケだったようですね。

70年、HüseyinがCemのバッキンググループKardaşlarに加入するために脱退し、Nihat Örerel(Ds)加入。
調べた範囲ではCemが引き抜いたのかHüseyinが自発的に移籍したのかは書かれていなかったのですが、いずれにしてもCemがこのグループの要素を、いろんな意味で自らのサウンドに循環させていたことは間違い無さそうです。

a2085.jpg
Bunalımlar1970 :(L to R)Ahmet・Aydın・Nihat

71年、このラインナップで元MoğollarのヴォーカリストAziz Azmetのソロ2ndシングルのバックを担当。
Azizのもっさりとしたヴォーカルと彼らのサウンドのマッチングは予想以上に良く、シングル1枚で関係が終わったのが惜しまれます。
もうちょっと一緒にやればよかったのになー。

その後、AhmetとNihatが脱退してAydın一人に。
Aydınは、大学時代の知り合いだったBerç(G)・Nur(Ds)のYenal兄弟と、2人のいとこのMelik Yirmibir(B)を加えてグループを再編。
このラインナップで、同年にグループ名義としては2枚目にして最後のシングルと、翌72年にソロシンガーFikri Takbakのバッキングを担当したシングルをリリースしています。

a2086.jpg

余談ですが、ShadoksのCDなどのライナーに掲載されている有名なこの写真はこの頃のもののようです。

72年、Yenal兄弟が脱退し、Cengiz Teoman(Ds)が加入。
この最終ラインナップで、ソロシンガーRifat Öncelのシングル2枚にバッキングで参加しています。

その後、程なくして活動を停止。

グループに関わったメンバーは、それぞれ脱退後にCem Karaca・Erkin Koray・Barış Mançoのアナドル・ロック3大怪人のバッキンググループに参加しており、文字通りアンダーグラウンド的にトルコのロックシーンで暗躍していたようです。



【“Bunalımlar [Turkey]”の続きを読む】 このページのトップへ

Information

Graham
  • Author: Graham
  • 日本語での情報の少ない、60年代の東欧・北欧・中近東などのBeat/Psychを中心に紹介しています。
    翻訳・編集に時間がかかるので更新は激烈にスローです(笑
    この自画像は、漫画友達の「ゆったりの間」管理人さん冬灯紗沙さんに描いて頂いたもので、さり気に対になっていたりします。

    コメント記入時、ホムペ・ブログなどのアドレスを記入すると投稿できないようにしてありますのでご注意下さい。

Search

Calendar

01月 « 2017年02月 » 03月
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -

 

プロフィール

Graham

Author:Graham
日本語での情報の少ない、60年代の東欧・北欧・中近東などのBeat/Psychを中心に紹介しています。
翻訳・編集に時間がかかるので更新は激烈にスローです(笑
この自画像は、漫画友達の「ゆったりの間」管理人さん冬灯紗沙さんに描いて頂いたもので、さり気に対になっていたりします。

コメント記入時、ホムペ・ブログなどのアドレスを記入すると投稿できないようにしてありますのでご注意下さい。

FC2カウンター

最近の記事

最近のコメント

カテゴリー

フリーエリア

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード