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あるにもあらず 過ぐるわが身は

東欧・北欧・中近東など世界の60's Beat/Psych、その合間にコミックなどを紹介しています。 こっそりとやっていますので、こっそりとお越し下さいませ(笑 


from Odyssea's TV clip "Ticho" 1971

今回は、前回のAtlantisのグループ唯一のアルバムになるはずだったものの、正常化政策の影響でお蔵入りしてしまった不運の名作「Odyssea」を紹介します。

69年春、前年のPetr Ulrychのブルノラジオ局で弾き語り事件を蒸し返されて、活動停止を余儀なくされたAtlantisでしたが、当時Petrがまとめていた楽曲群が、同郷のOrchestr Gustava BromaのトランぺッターJaromír Hniličkaの目に留まり、このマテリアルをAtlantisと共同で制作することになりました。
この楽曲群は、ホメーロスによる古代ギリシアの長編叙事詩「Odyssea」に触発されたもので、Petrの解釈で作詞作曲されたものでした。

「Odyssea」は69年6月にレコーディングされて、オケとの共同名義とは言えAtlantisのオリジナルアルバム、そしてチェコスロバキア初のトータルコンセプト・アルバムとしてリリースされるはずでした。

しかし、レコーディングした時期がドプチェクが第一書記を辞職後の、フサークによる正常化政策が吹き荒れ始めた最悪のタイミングで、Petrによる自由や人間の生活における精神的なきらめきを織り込んだ詞、シュールで難解なサウンドに当局が難色を示し、結果的にリリースは中止されお蔵入りになりました。
恐らく、件のラジオ局騒動のことで快く思われていなかったこともあると思われます。

リリースは中止になったものの、AtlantisはステージでOdysseaを演奏しており、またTVでもクリップが制作されて放映もされました。

71年以後のいつかに、Odysseaのマスターテープはほとんどが破棄されてしまったそうですが、Supraphonの著名なプロデューサーMichael Prostějovskýがファイナルミックスのサブマスターを自宅に保管しており、83年に彼が移住する直前に、Petrにこのマスターをこっそり手渡したことで奇跡的に音源が現存し、ビロード革命後の90年にリリース(LP CDは97年)され、一般に聴くことができるようになりました。


【“Atlantis /"Odyssea"(Czecho-Slovakia)”の続きを読む】 このページのトップへ
Atlantis67.jpg
Atlantis 1967 :(左上から時計回りに)Zdeněk,Oldřich,Stanislav,Petr,Jiří


今回は、以前記事にしたしたチェコスロバキアのポップなビート/サイケグループAtlantisの、大幅な加筆修正版です。
以前の記事で間違いだったことや、当時入手できていなかった&以後にリリースされたCDの紹介など、現時点での決定版です。
よって、以前の記事は削除しました。

62年の終わり、チェコ東部モラヴィア地方の都市ブルノの中等電気学校の生徒だったJiří Jirgl(G)・Vladimír Marek(B)・Zdeněk Kluka(Ds)の3人で結成したBrilantがAtlantisの前身にあたるグループで、当時はディキシーランドジャズをプレイしていたそうです。
63年、ブルノにほど近いオロモウツ出身のStanislav Regal(Key.G.Vo)が加入。
64年に入ると、ご多分に漏れずBeatlesの影響を受けてビートグループ化し、グループ名を変更してAtlantisになりました。
彼らは地元ブルノはもちろん、時にはオーストリアまで出向いて演奏活動を行っていたそうです。

そして67年の秋、同郷のグループVulkánを脱退したPetr Ulrych(Vo.G)が加入。

共産主義のこの国で安定した生活をするために軍人に…、という父親の意向でブルノの航空士官学校で学びながらも、音楽で身を立てようとブルノ音楽院で作曲を学んでいたPetrは、64年、6歳下の妹のHana UlrychovaとともにVulkánに加入。
Vulkán加入後、彼はポップ・ミュージックにモラビアン・フォークの要素を取り込んだオリジナル曲を提供し、、当時はまだレコードはリリースしていなかったものの、ブルノではかなり人気があったようです。

Petrの父親はVulkánでの活動を快く思わなかったようで、Petrに音楽の道をあきらめるよう説得する手紙を送ったりもしていたそうですが、彼の意思は変わりませんでした。
しかし、父親の気持ちを無下にもできなかったPetrは、グループ活動をしながらも改めて航空士官学校でちゃんと学位を取って、軍人としての道をちらつかせて説得してしまったそうです。
もちろん、軍人になるつもりはなかったそうですが(笑

66年ごろからグループのフロントのポジションを巡ってUlrychovi兄妹はメンバーと対立するようになり、67年に兄妹ともに脱退。
妹のHanaはオロモウツのBluesmenに加入し、Petrは新天地にAtlantisを選んだというわけです。

当時のAtlantisは、CreamやJimi Hendrixなどのカヴァーを演奏していたそうですが、優れたソングライターのPetr加入によって、モラヴィアのトラッドとロックを折り合わせた彼のオリジナル曲をメインに演奏するようになり、すぐに評判になりました。
68年3月には、ブルノの国営ラジオ局で初のレコーディングを行い、Supraphonから1stシングル「Jen O To Mi Nejde / Seď A Tiše Poslouchej」をリリース。
時代の空気を反映させた独特のメロディを持ったAtlantisのサイケポップは、すぐに話題に上りました。

Atlantis067.jpg
Atlantis 1967-68 :(L to R),Jiří,Zdeněk,Stanislav,Oldřich

この時点でのラインナップは、Petr(Vo.G)・Stanislav(Key.G)・Oldřich Fiala(G)・Jiří Svoboda(B)・Zdeněk Kluka(Ds)の5人編成で、レコーディングにはHanaもバッキングヴォーカルで参加していました。
上の画像は当時のラインナップのステージ写真で、Stanislavがギターを抱えたまま弾きやすいように、オルガンを斜めにセッティングしているのが面白いです。

1stシングルをリリース後、HanaがBluesmenから正式に移籍。
前年の1st Czechoslovak Beat FestivalでBluesmenでのHanaのボーカルが高く評価されており、彼女の加入はAtlantisにとっていい呼び水になったようです。

リリースしたレコードは高く評価され、プラハの春の自由な空気も相まってグループは充実した時を過ごしますが、それも長くは続きませんでした。

ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキア全域を占領した68年8月21日、Atlantisは西側へのツアーのためにブルノ空港に出向きましたが、すでに空港は軍に占拠されており足止めを食らっていました。
怒ったPetrはギターを抱えてブルノのラジオ局に飛び込み、占領への抗議として自作の反戦歌「Zachovejte klid(落ち着いて)」をライヴで歌いました。

映像などでみると穏やかそうな印象のPetrですが、父親の件と言い非常に気骨を持った人ですね。

Atlantis68.jpg
Atlantis 1968 :(L to R)Jiří,Jaroslav,Petr,Stanislav,Zdeněk

プラハの春が戦車で踏みにじられた後、絶望的な気分から無気力になる人が後を絶たなかったそうですが、音楽界でもこういったことが大きく影響していたようで、同年秋にOldřichが脱退、かつてHanaが在籍したBluesmenからJaroslav Vraštil(Key)が加入し、Stanislavはギター専任に。
その少し後に今度はZdeněkが脱退し、またもやBluesmenからVladimír Grunt(Ds)が加入と、Atlantisも短期間にラインナップが大きく変わりました。

これだけ次々メンバーが脱退して行く中、Atlantisがわりとすぐに新メンバーを加入させることができたのは、やはりHanaがBluesmenに在籍していたことが大きかったようです。


68年12月、相変わらず戦車がひしめく緊張したプラハで、2nd Czechoslovak Beat Festivalが開催され、Atlantisも出演しました。

69年初頭にJiříが脱退、Ivo Křižan(B.Vo)が加入。
Petr(Vo.G)・Hana(Vo)・Stanislav(Key.G)・Ivo(B)・Jaroslav(Key)・Vladimír(Ds)という、Atlantis活動期間中最強・最高のラインナップになりました。

最強ラインナップです
Atlantis 1969 :(左から時計回りに)Petr,Vladimír,Ivo,Jaroslav,Stanislav,Hana

同年春、ドプチェクが第1書記を辞職してほどなくして、チェコスロバキア国内に厳しい検閲が吹き荒れ始めました。
68年8月のブルノのラジオ局でのPetrの行動がこの頃になって当局で槍玉に上がり、長い期間ラジオでの仕事を禁止された上、Atlantisの活動も危機に追い込まれました。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
地元ブルノのオケOrchestrem Gustava Bromaが、Petrが当時まとめていたある楽曲群に目を留め、これらの楽曲をオケと共同でレコーディングするという形で、引き続き活動を続けることが可能になりました。


ラジオ局での件で活動に制限があったとは言え、69~70年のAtlantisは結果的に充実した活動と創作上のピーク迎えることになりました。

Atlantiscesta1.jpg

一つはOlympic・Prudy・Synkopy 61らとともに「Cesta, která vede nikam」の撮影に参加、「Don't You Break It Again」などの素晴らしい楽曲を提供しています。
上の画像はその時のオフショットと出演場面で、当時のチェコスロバキアでのデモクラシーをひしひしと感じさせてくれます。

もう一つは前述の楽曲群のことで、ホメロスの叙事詩を元にPetrが全曲を作詞作曲し、Orchestrem Gustava Bromaと共同制作したチェコスロバキア初の単一主題のポップアルバム「Odyssea」でした。

しかし、両作ともシュールで難解なうえ、自由や平和をテーマにした内容だったため、頭の固い当局の連中は理解せず、両作とも90年代までお蔵入りになってしまいました。
両作ともせめて68年のうちに制作されていれば、当時のリリースの可能性もまだあったと思うのですが、69年だとすでに検閲が再び厳しくなっていたので、制作のタイミングが良くなかったと言えます。
たぶん製作の段階でそんな予感はしていたとは思うのですが、それでも初志貫徹で完成させて残されたことは非常に意義高かったと思います。

「Odyssea」が陽の目を見たのは民主化後の90年になってからですが、いくつかの収録曲はオムニバスなどに収録されたり、TV用のクリップなどが制作されています。

70年になると、PetrとHana以外のメンバーが西ドイツ版ミュージカル「Hair(Haare)」のバッキングのために西ドイツへ。
Ulrychovi兄妹は、デュオ名義での1stアルバム「13HP」をレコーディングして翌年リリース。

「Hair」の仕事を終えたメンバーが帰国後、グループとしてのAtlantisの活動はほとんどなくなって行きました。
Hana & Petrのデュオのアルバムが評判になったことで、Atlantisは兄妹のバックバンドのような存在になって行き、71年に長年の在籍メンバーだったStanislav脱退後に一度分裂。
Hana & Petrのバッキングのためにすぐに再編するも、メンバーはかなり流動的になって行ったうえに、72年のデュオ名義の2nd「Hej Dámy, Děti A Páni(Hey Ladies, Kids And Gentlemen)」以後はPetrがフォークに傾倒して行ったことで、ロックグループとしてのAtlantisをバッキングにすることに違和感を生じてきました。
名義上のAtlantisは74年まで続いていますが、形式的に名前が残されただけで、73年には活動を停止しました。

余談ですが、末期の73年には元OlympicのLadislav Klein(G)・Jan Hauser(B)も在籍していたようです。


チェコスロバキアのグループの中で目立つ存在ではありませんが、ポップで良質な楽曲を最高の演奏で聴かせてくれる、個人的には思い入れの強いグループです。


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New Juggler Sound 1967:
(左上から時計回りにManuel・Alberto・Saúl・Eddy・Alex)

今回はLaghonia/New Juggler Soundの、プライベート録音を中心とした未発表音源が収録されたCDなど、レアトラックを紹介します。

当時、彼らは100曲ものオリジナルを書いたと豪語するだけあって、プライベート録音でかなりの曲を残しています。
それらの録音は、長年メンバーの家で眠っていたため、音質はあまり良くないものの、当時のペルーのシーンにおいての彼らの先進性を証明する、非常に貴重な音源です。

それらの録音の、おそらく一部ではあるものの、04年・13年に2種のCDでリリースされて、聴くことができるようになりました。

a3024.jpg

Unglue (ペルー Repsychled CD 1001)`04

1 Neighbor (inst)
2 The Sand Man
3 Billy Morsa
4 Trouble Child
5 My Love (original acoustic ver)
6 And I Saw Her Walking * Saul on vocals.
7 Glue
8 Glue (jamming)
9 Bahia (fast ver)
10 Outro
1~10…Glue's rehearsal tracks

11 World Full Of Nuts (backing track/final take)
12 The Sand Man (EP ver)
13 Chocolate Houses [S.Cornejo-M.Cornejo](unreleased)
14 Confusion In The Street [S.Cornejo-M.Cornejo](unreleased)
11~14…bonus tracks

「Glue」収録曲を中心にした、68~70年のリハーサル音源集。
Cornejo兄弟の自宅での録音のため音質はあまり良くないものの、アコギのみの演奏の5や公式録音ではDavidが歌っている6をSaúlが歌っていたりと、彼らのレコーディングの過程を垣間見るドキュメントと言える内容です。
1~10までが「Glue」関連の音源で、11は70年のシングルのバッキングトラック。
12はEP用オリジナルロングバージョンで、「Glue」収録バージョンの倍の長さで、サビのコーラスを外して1回目のソロが終わったところでフェイドアウトさせてアルバムに収録されています。
13・14は未発表曲で、本編よりさらに音質が悪く、13は少しジミヘン的なファンキーな楽曲でなかなか良いですが、パーティーで録音されたという14は、かなり粗削りで混沌とした演奏です。

日本のものよりも一回り小さいゲートフォールド仕様の紙ジャケですが、サイズが小さいのでジャケにディスクを入れることができず、紙スリーヴに入れてジャケで挟むしかないというかなり雑な作りです。
こちらは日本でもわりと流通していると思います。



【“Laghonia/New Juggler Sound(Peru) ③未発表音源CDについて”の続きを読む】 このページのトップへ
Davidが別人みたいです(笑
Los Mac's 1966(LtoR:David・Carlos・Eric・Willy)


前回のLaghoniaを聴き直す時に、一緒に取り出して聴いていたLos Mac'sの記事を、ほぼ全面書き直しで改めてうpしました。
以前書いた記事は削除しました。

Los Mac'sは、62年に首都サンティアゴに程近い港町ヴァルパライソで、David(G.Vo)&Carlos(B.Vo) MacIver兄弟を中心に結成。
65年に本格的に音楽活動をするためにサンティアゴへ移住、チリで最も最初に登場したビート・グループの一つ、Alan Y Sus BatesのメンバーだったWilly Morales(G.Key.Vo)、そしてEric Franklin(Ds)が加入。
ちなみに、グループ名はMacIver兄弟のファミリーネームが由来です。


同年、RCAと契約してデビュー・シングルをリリース。
66年には1st「Go Go /22」を、翌67年には2nd「GG Session by The Mac's」と、コンスタントにアルバムをリリース。
この2枚のアルバムまでは基本的にカバーがほとんどで、アルバム中の1曲やシングルの片面で自作曲を少しという感じだったようですが、そんな彼らに転機が訪れます。

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Los Mac's early 1967(LtoR:Eric・David・Willy・Carlos)

67年に登場した「SGT.Pepper's~」衝撃を受けた彼らは、サイケデリック・ムーブメントに大きく影響を受け始めました。
上の画像は2nd「GG Session by The Mac's」ジャケからのものですが、すでに66年までとはかなり雰囲気が変わっており、特にDavidは別人かと思うほどルックスが変わっています。
また、「GG Session~」の少し後にリリースされた、レーベルメイトでもあるLos Vidrios Quebradosのアルバム「Fictions」の完成度の高さにも大きなインスパイアを受け、自分たちのオリジナル曲でまとめたトータル・コンセプト・アルバムの制作を決意しました。

レコーディングの前に、サウンドを進化させるためにRCAにハイクオリティーな機材の購入を依頼、Fenderのアンプ類、Willyは白のストラトキャスター、DavidはGibsonのセミアコESのステレオアウトプット仕様を購入。
この時に入手したギターは、ちょっと見えにくいですが68年の4thアルバムのジャケットで見ることができます。
DavidのステレオアウトプットのESは、ネックのインレイとテールピースがブランコではなくアーム仕様のものに見えるので、おそらくES355だと思います。
色はさすがに判別しきれませんが、おそらく定番のチェリーレッドかと思われます。

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from 4th album

新作のレコーディングでは、今までと違いオリジナル曲を中心に収録し、曲によって同郷のソングライター Gitano Rodríguez・Payo Grondonaらと共作して、楽曲のクオリティを磨き上げて行きました。
ちなみに、このセッションでレコーディングされた「Dear Friend Bob」はレーベルメイトでWillyと友人同士だったLos Vidrios QuebradosのリーダーJuan Mateo O'Brienとの共作で、彼はこの曲のセッションにも参加しています。

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Los Mac's late 1967(LtoR:David・Carlos・Willy・Eric)

こうして完成されリリースされたのが、67年の終わりごろにリリースされた「Kaleidoscope Men」でした。

現在での評価が物語っているように、このアルバムの完成度は非常に高く、キラキラしたギターにエフェクトをかけたオルガンが散りばめられた、タイトルどおりの万華鏡的な音絵巻です。
少なくとも、僕が聞いてきた範囲でも南米60'sに限らず、世界レベルでのサイケ名盤の一つだと確信します。
しかし、当時チリのリスナーの反応はよくなかったそうで、当時のほかの国でも同じような感じだったみたいですが、ダンスに最適なビートを求めていた連中には支持されず、売り上げは思わしくなかったそうです。

このことに、機材を含めて多額の予算をかけたRCAも、気合を入れて制作したメンバーも落胆しました。

68年には4thアルバム「Los Mac's」をリリースしましたが、オリジナルで固めた前作の売り上げが思わしくなかったせいか、カバー曲を入れるよう要求されたようで、「Kaleidoscope Men」の次作としては散漫な内容になってしまったようです。
この4thアルバムに収録された中で2曲ほど聴いたことがあるのですが、前作のスタイルを継承した素晴らしいできばえで、オリジナルで固めていたらもう一つ名盤ができていたのではとさえ思います。

4thアルバムリリース後、「Kaleidoscope Men」評価されなかったことに幻滅した彼らは、フェデリコ・サンタ・マリア・テクニカル大学でラストコンサートを行い、ヨーロッパに活路を向けることを決意しました。
そしてイタリアのジェノバへ移住したものの、たいした活動も成果も残せずに、翌年に解散してしました。

しかし、「Kaleidoscope Men」は、現在では非常に高い評価を受けており、トランスワールドビート/サイケファンの必聴盤となっています。

そして、その声はメンバーにも届いたようで、11年ごろからDavid & Carlos MacIver兄弟がグループを再結成。
国内をツアーしつつ、2枚の新作アルバムを制作し、現在も活動を続けています。


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a3026.jpg
Laghonia early70's
L to R: Carlos・David・Manuel・Alex・Eddy・Saúl

①の続きです。

70年、1stアルバム「Glue」をリリース後、さっそく次のアルバム用のレコーディングに取りかかりました。
しかし、数曲レコーディングしたところでEddyとAlexが脱退。
スピリチュアルな旅に出るためという、当時のヒッピームーブメントを感じさせる理由でした。

残されたメンバーは、Manuelがベースを兼任することでレコーディングを続け、Laghonia名義としては唯一のシングルをリリースして急場をしのぎました。
71年に入ると、サポートメンバーとしてErnesto Samamé(B)と、MagレーベルのオーナーManuel Guerreroの息子Carlos Guerrero(Cho)を加えて、アルバムを完成させました。
リリースされた2ndアルバム「Etcetera」は、それまでの彼らの要素に加えて、Carlos Salomが持ち込んだジャズの要素が加わった、70年代的な多様性を感じさせる優れたアルバムでした。
前作同様、アルバムは高い評価を得ましたが、それに反して売り上げは思わしくはなかったようです。

さらに、アルバムリリース後にDavidがアメリカへ帰国するために脱退。
Laghoniaのサウンドの中で重要なポジションを締めていた、Dividの脱退のダメージはあまりにも大きく、グループは活動を停止しました。

解散時の最終ラインナップだったSaúlとManuelのCornejo兄弟と、Carlos Salom・Ernesto・Carlos Guerreroは、新たにメンバーを加えてWe All Togetherを結成。
Beatles/Paul McCartney直系の、ポップで優れた楽曲を数多く残しています。

その後、Laghoniaは90年代に入ってから世界的に再評価されるようになり、長らく廃盤で超入手困難だった2枚のアルバムがリイシューされ、さらにセッション時のリハーサル音源やデモレコーディング集もリリースされ、現在では彼らの音源の入手が楽になりました。
そして2010年、グループ再評価を受けてSaúl・Manuel・Eddy・Alexの核メンバーが集結して、一時的なLaghoniaの再結成が実現し、国内でライブを行いました。

Laghoniaは、ペルーの伝説的な名グループとして、これからも語り継がれると思います。

(③に続く)


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  • Author: Graham
  • 日本語での情報の少ない、60年代の東欧・北欧・中近東などのBeat/Psychを中心に紹介しています。
    翻訳・編集に時間がかかるので更新は激烈にスローです(笑
    この自画像は、漫画友達の「ゆったりの間」管理人さん冬灯紗沙さんに描いて頂いたもので、さり気に対になっていたりします。

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