
Indeksi 1964:(L to R)Đorđe Uzelac・Đorđe Kisić(上)・Ismet(下)・Slobodan Misaljević・Šefko
最近、もっぱら月いち更新になってしまっていますが、いろいろやってる合間にちょっとづつデータをまとめています。
今回は久々のユーゴものです。
ユーゴ・ビート最古にしてプログレ最古のグループの一つIndeksiを紹介します。
Indeksiは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボで62年に結成。
結成時のメンバーはIsmet Nuno Arnautalić(G)・Slobodan Misaljević(G)・Đorđe Uzelac(Key)・Šefko Akšamija(B)・Nedim Hadžihasanović(Ds)の5人で、62年と言う時期もあって当初はインストグループとして活動していました。
63年、Nedimが脱退し代わりにĐorđe Kisić(Ds)が加入した頃から、Shadowsなどのインストものに加えてボーカルものも演奏するようになり、ステージによって外部のシンガーを入れていたようです。
64年、ベオグラードで行われたコンテストで2位入賞し、PGP RTBでレコーディングする機会を獲得し、同年1stEPをリリースしました。
ユーゴにも到来したブリティッシュ・インベイションに彼らも刺激を受けて、同年末にボーカリストDavorin Popovićを加えビート・グループへと変貌しました。
しかし、65年に入ってからSlobodan Misaljević・Đorđe Uzelac・Šefkoの3人が一気に脱退、代わりにSlobodan Bodo Kovačević(G)・Fadil Redžić(B)が加入。
ビート・グループとしてのレコードをリリースするためにデモをレコーディングしたりしながらも、2枚目のEPが67年までリリースできなかったのは、この大幅なメンバーチェンジが影響しているのかもしれません。
ともあれ、このラインナップ(一人加わっていますが)で68年まで続けて活動しています。
67年、サラエボでのフェスティバル「Vaš Šlager Sezone(Your Hit Of The Season)」に出演し、ビート・グループになって初の公式リリース曲「Oko Malih Stvari Svađamo Se Mi」を発表。
Ismet-Slobodan Bodo作のこの曲は、直後にリリースされた同フェスのタイトルのオムニバスEPに収録されました。
さらに、1stEPから3年ぶりの2ndEPをリリース。
「Nowhere Man」のカバーを除く3曲はIsmetとSlobodan Bodoによるオリジナルで、早くもサイケなフレーバーをふんだんに取り込んでいます。
インスト時代は東欧圏に数多くいた同系統のグループとの差異はさほど感じられないサウンドでしたが、この時期になると軽快でポップなサウンドをグループの個性にすることに成功しています。
この頃に2年の間空席だったキーボードに座ったのが、オルガンプレイヤーでソングライターのKornelije Kovačで、彼は68年までの短期間在籍しただけにもかかわらず、Indeksiのサウンドスタイルの変化に大きな影響を残すことになります。
68年に入ってすぐにソ連(!)への2ヶ月間のツアーをこなし、帰国してすぐに去年に引き続き「Vaš Šlager Sezone」に出演、その後リリースされたオムニバスEPにKornelije-Slobodan Bodo作の「Pustinjak」が収録。
65年以来安定していたラインナップでしたが、68年春にĐorđe Kisićが脱退、Dinamiti・Pro arteなどに在籍していたMiroslav Šaranović(Ds)が加入。

Indeksi 1968:(左上から時計回りにMiroslav・Ismet・Slobodan Bodo・Davorin・Fadil・Kornelije
この新ラインナップで「Opatijskom festivalu ’68」に出演、かつてBezimeni・DelfiniのメンバーだったPetka Kantardžijev作で、オーケストラをバックにした5分超のシンフォニックな「Jutro će Promijeniti Sve 」を披露し、コンテストで3位に入賞。
このことがきっかけで、Indeksiは急速にプログレッシブ・ロックのスタイルにシフトして行くことになりました。
「Jutro će Promijeniti Sve 」を片面に収録した3曲入りの3rdEPをリリースした直後、今度はKornelijeが脱退し、ベオグラードに戻ってKorni Grupaを結成。
代わりにĐorđe Novkovićが加入。
彼が提供したオリジナルや、Korni Grupaの楽曲を聴いてみると、多分彼はIndeksiの目指したスタイルよりもファンキーで演劇的な方向を目指していたのではと思います。
ルックスもIndeksiのメンバーでは強烈に濃いしね(笑
どうでもいいことですが、これで「Đorđe」3人目よ(笑
ファーストネームを省けないので今回は面倒だったな(笑
ま、英語圏での「George」にあたる名前なので多いのも無理ないか(笑
69年に入るとすぐ、72年にJugotonからリリースしたドラマティックな「Plima」や、同じく72年にRTVからカセットオンリーでリリース(そのせいで後年大変入手困難だったそうで)された1stアルバムに収録された、彼ら初の10分超の大作「Negdje Na Kraju U Zatišju」などの代表曲を立て続けにレコーディング、プログレ路線を突き進んでいきました。
このタイミングで、グループの創設者で唯一のオリジナルメンバーであったIsmetが軍隊に招集され、そのままグループを脱退。
プログレ路線になってからは、Slobodan BodoとFadilに主導権を奪われてしまい、面白くなかったであろう彼にとっては脱退するいい口実だったのかもしれません。
ちなみに、彼は除隊後にデビュー前のごく初期のBijelo Dugmeに加入しています(71〜72年)。
これ以後も、最盛期の70年代を経て、Davorinが亡くなる2001年に至る、長きに渡って活躍していくことになります。
60年代のIndeksiは、インスト→ビート・サイケ→プログレと、この時代の目まぐるしいサウンドスタイルの変遷を自ら体現していたと言えます。
補記:この記事ではグループ名を「Indeksi」で通しましたが、実際に60年代はこの名義で活動していたようです。
現在一般的な呼び方である「Indexi」名義になったのはJugotonに移籍した70年以後のようです。
【“Indeksi [Indexi] (Yugoslavia)”の続きを読む】

ここしばらくの間、家にいる時はほとんど本を読んでいました。
アニメで観た「偽物語」が面白かったので、原作を一気買いしたり、地元の大型書店の在庫の勢いに飲まれてあれこれ買ったりで、読む本が尽きなかったので勢いが止まりませんでした(笑
現在はこの春のアニメ「氷菓」の原作本を読んでいるところです。
もうちょっとで4冊とも読み終わるので、それまではブログはサボります(笑
CDは最近あんまり買っていませんね。
ようつべで聴いた時、あまりのどキツいこぶしに及び腰になって避けていたポーランドのNiemenのCDを2枚買っただけです。

改めて聴いてみると、これがかなり良かったです。
僕の経験上、ようつべで聴くと「曲を探すこと」が念頭にありすぎてちゃんと聴けていないことが多いのですが、NiemenもこうしてCDでじっくり聴くと、その良さがよく分かります。
とりあえず70年くらいまでの音源はそろえてみようと思っています。

Olympic 1970:(左端から時計回りに)Petr・Ladislav・Miroslav・Jan Hauser・Jan
新ベーシストJan Hauser加入後、この新ラインナップで再びフランスへ渡り、アルバム「Back To Love」レコーディングを開始。
しかし、一年前と著しく情勢の違うチェコスロバキアのグループのツアーやプロモーションは難しいと判断したのか、フランスのマネージメントはアルバム製作の中止を告げました。
彼らにとって西側での初のアルバムになるはずだった「Back To Love」のリリースは、幻となって消え去ってしまいました。
70年に入ると、フサークによる正常化政策の波が本格的に音楽業界をも飲み込み始めました。
69年には再び徐々に厳しくなって行ったメディア・芸術関係の検閲ですが、年が明けるとそれは非常に偏執・先鋭化して行き、楽曲のみならずグループ名・ファッションにまで及ぶようになり、Blue Effectのような硬派なグループから、比較的無難なポップシンガーのKarel Gottまでくまなく対象にした徹底したものでした。
つまり、当局の言いなりにならないとミュージシャンとしての活動が認められなくなったわけです。
一番有名なのが、あくまでも正常化政策に反対の意向を示したMarta Kubišováへのすさまじく執拗な抑圧で、ミュージシャンとしての活動を禁止されただけでなく、当局の嫌がらせで一般的な仕事にもなかなか就くことができず、幼い娘を抱えたMartaは民主化までの20年近くもの間、苦難の生活を強いられました。
Martaへのすさまじい抑圧を見聞きしていたであろうPetrは、グループを守るために妥協の道を選びました。
ある程度の制作上の自由(とは言っても西側よりも遥かに厳しい)と海外への渡航、そして「Olympic」のグループ名の保持を確保する代わりに、当局が主催するイベントなどでの演奏や政策への同意を強要されたようです。
もちろん、Petrにとっても苦渋の選択だったことは間違いありません。
Olympicの「妥協」を快く思わない人もいたようですが、共産主義の国で生活の糧を確保することは非常に切実なことだったと思いますし、最も実力・人気のあったOlympicが活動停止に追い込まれていたら、チェコスロバキアの音楽シーンはもっと停滞してしまったかもしれません。
そして70年9月、3rdアルバム用のレコーディングを行い、翌71年に入ってからそのニューアルバム「Jedeme,Jedeme」をリリース。
前2作と同じく、Jan Antonín Pacákがデザインと手がけたジャケットに包まれたこのアルバムは、当局の意向に合わせたのかサイケな要素は薄まりましたが、更に磨きがかかったPetrによる楽曲は粒ぞろいで、非常に充実した内容でした。
「Going,Going」という意味深なタイトルはグループ自身、そしてチェコスロバキア国民に向けられたものなのでしょうか?
71年4月、当局が難色を示したことで延期になっていた3rd Czechoslovak Beat Festivalがようやく開催され、彼らも3回連続で出演を果たしました。
その直後、グループに激震が走りました。
Jan HauserとJan Antonín PacákがOlympicからの脱退を表明したのです。
Jan Hauserは、メンバーとも仲良くなり(特にLadislav、そしてファーストネームが同じJan Antonín Pacákとは親しかったそうです)、ようやくグループになじんできた矢先の脱退でした。
そしてJan Antonín Pacákは、職業画家に転向するためと言うのが脱退の理由でしたが、グループで最もアーティスティックな自由人だった彼が、正常化の波の中で制約を受けながら活動を続けることにフラストレーションを感じていたのはないでしょうか?

アーティスティックでありながらも非常に社交的でお茶目な、そしてPavelが抜けてからはPetrに意見ができる唯一の存在だった彼の脱退は、グループ史上最大の痛手だったと言えます。
作曲には関わっていなかったものの、ジャケットデザインを手がけたり、ドラム以外の楽器もこなすマルチプレイヤーであった彼の存在は、楽曲のコンセプトなどに多大な影響を及ぼしていたようで、彼が脱退後のOlympicの楽曲には、それまであった遊び心のようなインプットが失われてしまっている事を感じさせました。

この画像は70年のシングル「
Otázky」のTV番組用の映像での、出発前にJanが「車」のドアから乗り出して錨を取り込んでいる(笑)場面ですが、こういう楽しい遊び心のあるアイデアはほとんど彼によるものだったのではと思います。
Jan Antonín Pacákの脱退によって、Olympicにとって最も大胆で創造的だった時代は終わりと告げたと言えるでしょう。
しかし、Olympicの道はまだまだ続いて行きます。
補記:ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、僕はJan Antonín Pacákが大好きなので、ラストの部分がかなり彼びいきの内容になっています。違う意見もあるかと思われますが、どうかご了承下さい。
【“Olympic(Czecho-Slovakia)/Jedeme,Jedeme(1971)”の続きを読む】

Olympic 1969:(L to R)Ladislav・Petr・Jan・Pavel・Miroslav
さて、調査が難航して後回しになっていたOlympicの続きを。
チェコスロバキアものを重視しているのに、最も重要なグループのOlympicが「Želva」しか紹介していないってのもね(笑
1stアルバム「
Želva」の大ヒットのごほうびとして、彼らはTV番組の収録とツアーを兼ねた長期の休暇をフランスで過ごすことになりました。
当時はプラハの春真っ盛りだったので、自由に海外に渡航できるタイミングだったのです。
パリ観光や、海水浴(チェコスロバキアには海がないので、結構楽しみだったのでは?)を満喫した彼らですが、その矢先の68年8月21日、本国がワルシャワ条約機構軍に占領されてしまった事を知りました。
メディア・電話などの情報や、空港などの封鎖によって本国の情勢を思うように知ることができないうえに、帰国もままならない状況になってしまいました。
とりあえず、本国でのTV番組「Olympic V Pařiži」用の映像を収録し、Five Travellers名義でフランスでリリースするEP(フランスVega 2.329)用に4曲をレコーディングしてリリース。

Five Travellers名義にしたのは、一般的にOlympicという名詞はやはりあの「オリンピック」をイメージさせるので、プロモーションの面での不都合を考えたのかもしれませんが、それにしても安直なネーミングですね(笑
予定をこなすと取り立ててやることもなかったようで、無為に時間を浪費するはめになり、ようやく帰国できたのは何と12月になってからで、当初の予定よりも遥かに長い、そして不安な休暇だったようです。
ともあれ、帰国して間もなく、2ndアルバム「Pták Rosomák」のレコーディングを開始、年末にはルツェルナ・ホールにて2nd Czechoslovak Beat Festivalに出演。
年が明けて69年1月までレコーディングを重ねて完成された「Pták Rosomák」がリリース、前作と同じくポップかつほの暗いサイケなサウンドが好評を得てヒットしますが、今回のアルバムは前作「Želva」とは違った重暗さが感じられる内容でした。
「Pták Rosomák」リリース後、主演したJan Antonín Pacákとともにグループで収録に参加した「
Cesta, která vede nikam」での映像では楽しそうな姿を見せる彼らでしたが、この頃すでに暗雲は立ち込めていたのでした。
同年4月、ルツェルナ・ホールでのライヴを最後に、Pavel Chrastina(B.Vo)が脱退。
映像制作の仕事に転向するために勉強をするというのがその理由で、実際後年彼はTVでの仕事に就くわけなのですが、Petr Jandaとの確執もあったようです。
ApollobeatからJan Hauserが移籍してベーシストの席は埋まったものの、端正な顔立ちのイケメンで、それまでレパートリーのほとんど全てを作詞していたPavelの抜けた穴は大きく、以後は作詞を外部のライターに依頼することになります。
Pavelの手がけた詞のタイトルは、「Psychiatrický Prášek(精神科の粉末)」「Pták Rosomák(クズリ鳥)」など風変わりなものが多かったのに対して、以後は「Anděl」「Dynamit」などタイトルだけで内容が予想できるシンプルな印象に変貌しました。
もっとも、検閲にかからないように無難な歌詞にすると、自然とそうなってしまったのかもしれませんが。
また、69年から再びメディアに対する検閲が厳しくなったことで、自由に作詞ができなくなることに嫌気がさしたのも、脱退の一つの理由だったのかもしれませんね。
ともかく、Pavelの脱退はのちのOlympicの目まぐるしいメンバーの入れ替わりの序曲となったのでした。
【“Olympic(Czecho-Slovakia)/Pták Rosomák(1969)”の続きを読む】

Atlantis 1969 :(左から時計回りに)Petr・Vladimír・Ivo・Jaroslav・Stanislav・Hana
今回は以前から紹介したかったチェコスロバキアのポップなビート/サイケグループAtlantisです。
資料を翻訳するのと、流れを整理するのに手間取ってしまって、完成させるのに時間がかかってしまいました。
Atlantisは、63年にAleš Sigmundがブルノで結成したVulkánから派生したグループで、ここではAtlantisのキーマンであるPetr & Hana Ulrychovi兄妹がVulkánに加入した64年から、Atlantisが単独のグループとして活動していた70年までの範囲で話を進めて行きます。
共産主義のこの国で安定した生活をするために軍人に…、という父親の意向でブルノの航空士官学校で学びながらも、音楽で身を立てようとブルノ音楽院で作曲を学んでいたPetr Ulrychoviは、64年、6歳下の妹のHana UlrychovaとともにVulkánに加入。
Vulkánはポップ・ミュージックにモラビアン・フォークの要素を取り込んだグループで、当時はまだレコードはリリースしていなかったものの、ブルノではかなり人気があったようです。
Petrの父親はVulkánでの活動を快く思わなかったようで、リーダーのAlešに「音楽をあきらめて軍人として身を立てるよう説得して欲しい」という手紙まで送っていたようです。
Alešは優れたソングライターでリードボーカリストでもあるPetrを手放す気はさらさらなかったのでどスルーしたようですが、父親の気持ちを無下にはできなかったPetrは、グループ活動をしながらも改めて航空士官学校でちゃんと学位を取って、軍人としての道をちらつかせて説得してしまったそうです。
もちろん、軍人になるつもりはなかったそうですが(笑
その件が片付いたかと思いきや66年、今度はリーダーのAlešが兵役に取られてしまい、リーダーを欠いたVulkánは活動停止を余儀なくされてしまいました。
相談の結果、残されたメンバーは別名義のグループで活動していくことになりました。
それがAtlantisでした。
初期メンバーはHana(Vo) & Petr(Vo)兄妹に、Stanislav Regal(Key.G.Vo)・Jan Hubáček(B)・Zdeněk Kluka(Ds)の5人編成。
67年、Alešが兵役を終えて復帰、最終的に彼はVulkánを再始動させ、Atlantisは別個に活動することになりました。
ただ、少なくともAtlantisがレコードデビューするまでは繋がりは強かったようで、同年のVulkánのデビューシングルのレコーディングは、Hana & Petrがリードボーカルとしてフューチャーされ、Petrの楽曲が採用されています。
Atlantisは兄妹ボーカル、Vulkánは姉妹ボーカルをフューチャーしており、ポップな音楽性といい、この2つのグループは奇しくも共通した面が多いのも面白いところです。
同年、Hanaが
Bluesmenに加入。
68年にAtlantisのデビューシングルのレコーディングが始まると復帰していることからして、おそらく一時的な参加だったようですが、Bluesmenでの活動でHanaのボーカルが高く評価され、Atlantisにとってもいい呼び水になったようです。
1stシングルのレコーディングの前にJanが脱退、Oldřich Fiala(G)・Jiří Svoboda(B)が加入。
68年3月にSupraphonから1stシングル「Jen O To Mi Nejde / Seď A Tiše Poslouchej」をリリース。
AtlantisはPetrの幅広いスタイルのソングライティングとHanaとのツインボーカル、時代の空気を反映させたサイケデリックな要素を持ったサウンドが持ち味でした。
リリースしたレコードは高く評価され、プラハの春の自由な空気も相まってグループは充実した時を過ごしますが、それも長くは続きませんでした。
68年8月21日、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキア全域を占領した時、グループは西側へのツアーのためにブルノ空港にいたのですが、すでに軍に占拠されており足止めを食らっていました。
怒ったPetrはギターを抱えてブルノのラジオ局に飛び込み、占領への抗議としてプロテスト・ソング「Zachovejte(落ち着いて)」をライヴで歌ったそうです。
映像などでみると穏やかそうな印象のPetrですが、父親の件と言い非常に気骨を持った人ですね。

68年12月、相変わらず戦車がひしめく緊張したプラハで、2nd Czechoslovak Beat Festivalが開催され、Atlantisも出演しました。
69年に入って、ブルノのラジオ局でのPetrの勇敢な行動が、メディアへの検閲が復活した後に当局で槍玉に上がり、長い期間ラジオでの仕事を禁止された上、グループの活動も危機に追い込まれました。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
地元ブルノのオケ、Orchestrem Gustava Bromaが手を差し伸べ、Atlantis自体をオケの一員として採用することで、引き続き活動を続けることが可能になりました。
また、この件でのゴタゴタでZdeněkとOldřichが脱退、68年いっぱいでBluesmenを脱退したJaroslav Vraštil(Key)とVladimír Grunt(Ds)が加入、Stanislavはギター専任にシフトして、さらに69年初頭のレコーディング後にJiříが脱退し、Ivo Křižan(B.Vo)が加入、Atlantis史上最強の凄腕揃いのラインナップになります。
ラジオ局での件で活動に制限があったとは言え、69〜70年のAtlantisは結果的に充実した活動と創作上のピーク迎えることになりました。
一つはOlympic・Prudy・Synkopy 61らとともに「
Cesta, která vede nikam」の撮影に参加、「Don't You Break It Again」などの素晴らしい楽曲を提供しています。
もう一つはホメロスの叙事詩を元にPetrが全曲を作詞作曲し、Orchestrem Gustava Bromaとともに制作したチェコスロバキア初の単一主題のポップアルバム「Odyssea」。

Odyssea(CD)
しかし、両作ともシュールで難解な内容だったためか、頭の固い当局の連中が理解できず、首を縦に振らせることができなかったようで、両作とも90年代までお蔵入りになってしまいました。
両作ともせめて68年のうちに制作されていれば、当時のリリースの可能性もまだあったと思うのですが、69年だとすでに検閲が再び厳しくなっていたので、制作のタイミングが良くなかったと言えます。
たぶん製作の段階でそんな予感はしていたとは思うのですが、それでも初志貫徹で完成させて残されたことは非常に意義高かったと思います。
「Odyssea」自体が陽の目を見たのは民主化後の90年になってからですが、いくつかの収録曲はオムニバスなどに収録されたり、TV用のクリップなどが制作されています。
70年になると、グループとしてのAtlantisの活動はほとんどなくなり、Hana & Petrのバックバンドのような存在になって行き、メンバーもかなり流動的になって行きました。
名義上のAtlantisは74年まで続いていますが、グループ単体での活動は70年初頭までで終わりを告げたと言えます。
チェコスロバキアのグループの中ではちょっと地味で小粒な印象ですが、ポップで良質な楽曲を最高の演奏で聴かせてくれる、個人的には外せないグループですね。
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