あるにもあらず 過ぐるわが身は

東欧・北欧・中近東など世界の60's Beat/Psych、その合間にコミックなどを紹介しています。 こっそりとやっていますので、こっそりとお越し下さいませ(笑 

ルックス通りの怪しいサイケです(笑
with Kaygısızlar 1968(L to R:Mazhar Alanson・Barış・Fuat Güner・Mihat Danisan)


今回はトルコの音楽界の大御所で、来日公演を行ったこともあるBarış Mançoの、Kaygısızlarと活動した67~70年のサイケ時代を紹介します。

日本人の感覚で読むと放送コードに引っかかってしまいますが、正しくは「バルシュ・マンチョ」と読みます。
…いや、正しく読んでも微妙ですが(笑

Barışは第二次世界大戦中の1943年、当時のトルコで有名だったシンガーRikkat Uyanıkを母として、イスタンブールで誕生。
高校時代にErkin Korayのグループの演奏を観て、直後に彼の最初のグループKafadarlar(「相棒」という意味)を結成します。
詳しい結成年は不明なんですが、Barışが高校生というとおそらく58・59年くらいで、当時のErkinはプレスリーなどのロックンロールのカバーをやっていたようなので、Kafadarlarも同じようなスタイルのグループだったんじゃないかと思います。

高校卒業後の62年にはHarmonilerを結成し、プロとしての活動をスタートさせます。
Harmonilerは当時はやっていたツイストのカバーと、トルコのフォークソングをロックンロールにアレンジしたものなどをレコーディングしてリリースしており、60年代前半にして早くも「アナトリアン・ロック」を体現していたことは特筆に価します。

Harmonilerはシングル3枚を残して63年に解散、Barışは突如単身でフランスに渡り活動、66年には現地のミュージシャンとLes Mistigrisを結成し、フランス国内とドイツ・ベルギー、そしてトルコでツアーを行い、67年までにソロで1枚のEP、グループ名義で1枚のEPと2枚のシングルを残しています。
フランス人とのグループのせいか、演奏はヨーロッパ的でわりとシャープな印象です。

67年、Barışは深刻な交通事故に見舞われ大怪我をしています。
この事故でできた傷を隠すために生やし始めたヒゲが、のちに彼のトレードマークになってしまうのですが、運命と言うものは本当に分からないものですね。

ちょうどいいので、Barışのルックスの変化を紹介してみましょう。

ヒゲ前→ヒゲ後(笑

上の画像左側がおそらく66年前後のフランス時代のひげを生やす前で、実は結構イケメンなのがよく分かります(笑
で、一番最初の画像のKaygısızlar時代の68年を経て、70年代には右側のごとくこんなに怪しいキャラになってしまいます(笑
ポーズがパーデンネンみたいですね(笑
「ひょうきん族」を知らない世代の人にはさっぱり分からないかもしれませんが(笑

あと、Frank Zappaにちょっと似ていますね。
ま、彼に限らず、トルコのミュージシャンにはZappaっぽい人がわりといますが(笑

70年代の彼の怪しいルックスは、画像検索でいろいろ見れますので、興味のある方はググってみてください(笑


フランス時代、さまざまな国籍のミュージシャンとの活動の難しさにフラストレーションを感じていたBarışは、自国に戻ってKaygısızlar(Carefrees)との活動を始めました。



Kaygısızlarは、元々はMazhar Alanson(G.Vo)・Fuat Güner(G.Vo)の2人が66年に結成したユニットで、Beatles・Stonesに影響を受けていたそうです。
67年にBarışと活動するようになってから、Mihat Danisan(B)とAli Serdar(Ds)を加えてバンド編成になり、70年まで彼のレコーディングとツアーに同行しています。
Kaygısızlarが70年まででBarışから離れたのは、どうもBarışが積極的だったトルコ国外へのツアーに乗り気でなかったのが原因だそうで、彼らの演奏力を考えるとちょっともったいなかったなあって思いますね。

また、Kaygısızlarはグループ単独でも69~71年の間にシングルを4枚残しており、その時期ごとにBarışの音楽性とほぼ歩みを同じくしています。

グループは72年に解散、末期のメンバーだったMazhar・Fuat・Özkan Uğur(G)の3人でMFÖ(3人の頭文字をつないだもの)としての活動に移行していきました。


トルコらしいカラフルさのサイケデリアと、のちにMFÖで展開させるアナトリアンな要素を併せ持つMazhar & Fuatの凄腕ギターコンビと、アタックが強く音数が多い、基本的には重いがその中に妙な軽快さのあるリズムセクションで形成されたKaygısızlarの演奏は、Barışのボーカルや楽曲とのマッチングが良く、この時期にリリースされたEP・シングルの完成度の高さからしても、彼の長いキャリアでも最も充実した時期だったのではと思います。

Kaygısızlarと袂を分けた後、新たにBarış Manço Ve ...(Barış Manço and ...)を結成し、71年にBarış初のビッグヒット「Dağlar Dağlar」をリリース。
以後はトルコロックの大御所として、国内だけでなく世界を股にかけて、99年に心臓発作で亡くなるまでの長きに渡って活動していきました。

Barışの40年にわたる長いキャリアの中では、やはり70年代が最も有名で評価も高いのですが、個人的にはKaygısızlarと共に作り上げた60年代末のアナトリアン・サイケへの思い入れが強いです。

第二次世界大戦中に産まれた兄のSavaş(戦争)に対し、Barış(平和)と名づけられた彼は、フラワー・ムーヴメントの申し子の1人と言えると思います。


【“Barış Manço [& Kaygısızlar] (Turkey)”の続きを読む】 このページのトップへ

Prúdy 1969:上左からPavol・Fedor、下左からVlado・Peter・Marián

5.22:Fedor Frešoについて加筆


今回は、Dežo Ursínyと共にスロバキアの音楽シーンの兄貴分的な存在である、Pavol Hammelが率いたグループPrúdyを紹介します。

ブラチスラヴァの音楽一家に生まれ、バイオリニストにとの父親の意向を蹴ってギターを弾き始めたPavolが、62年に仲間と結成したグループJetsがその源流で、翌63年にJetsのスロバキア語表記であるPrúdyと改名したところから始まります。
結成時のメンバーはPavol(G)・Peter Saller(G)・Vladimír Kaššay(B)・František Machats(Ds)の4人で、のちのフォーキーな印象からしたら驚きですが、当初はSputniksやShadowsなどの影響を受けたインストグループだったとか。
ま、時代からしたらそうなるでしょうね。

64年くらいから、ブリティッシュ・インベイションの影響を受けてビート・グループ化し、同時にDylanを経てビートニク詩人らの影響を受けて行ったようです。

67年、Františekが脱退し、解散したばかりのBeatmenからPeter Petro(Ds)が、そしてMarián Varga(Key)が加入。
この頃から、PavolとMariánを中心にオリジナル曲を書き始めました。
Pavolの高校時代からの友人Boris Filanと、Mariánの音楽院での同級生だったKamil Peterajが作詞を担当し、曲によっては Ján Masarykら詩人の詞を取り入れたりもしています。

こうしてDylan・Donovan、そしてBeatlesのサウンドとビートニク的な詞を、彼ら独自で咀嚼したサイケでシュールなフォークロックに形成していきました。

同年12月、1st Beat Music Festivalに出演、Dylanばりのフォーキーなステージを展開させました。

以前紹介したFlamengoに負けず劣らず、Prúdyもメンバーチェンジの激しいグループでした。
68年、1stシングルリリース後にPeterが脱退しĽubomír Dolinský(Ds)が加入するも、あっけなくベースのVladimírと共に脱退、同時期に空中分解したSoulmenからFedor Frešo(B)とVlado Mallý(Ds)が加入と、目まぐるしいメンバーチェンジを繰り返したのち、ようやく安定したラインナップになりました。
と言っても2年弱なんですが(笑

ともあれ、この5人のラインナップの時期が、グループにとって最も充実した活動をして行くことになります。

同年、TV映画「Aleluja」(Pavol自身も胡散臭そうな格好で出演)やTV番組「Nedeľná Chvíľka Poézie」のサントラを手がけ、12月には2nd Beat Music Festivalに出演し、前年とは打って変わってサイケな要素を前面に出しています。

Pavolの67年と69年のステージスタイルの違いを見てみましょう。

スタイルの変化が

左が67年、右が69年1月の画像なんですが、67年の思いっきりDylanチックなスタイルから、BandのRobbie Robertsonみたいになっちゃってますね(笑
以後、丸メガネは彼のトレードマークになります。

68年末から、グループは1stアルバム「Zvoňte, Zvonky」と、Pavolのソロ的な「Pokoj Vám」を制作しており、前述のサントラなどを合わせると、かなりハードなスケジュールだった事をうかがわせます。

ビートニク的な内容で、当時はリリースが見送られた「Pokoj Vám」についてはいずれ改めるとして、ここでは翌69年にリリースされたPrúdyの記念すべき1stアルバム「Zvoňte, Zvonky」について述べます。

このアルバムは、前述したサイケなフォークロック路線を前面に出した、非常にユニークなもので、Olympicの「Želva」やMatadorsのアルバムと共に、「プラハの春」前後期の最重要アルバムの一つです。
全体的にサイケと言うかシュールな空気に包まれており、その空気を支配しているのが全12曲中9曲を占める、クラシカルな要素をうまく織り込んだMariánの個性的なソングライティングで、さり気に感じさせる前衛的なセンスは、後のCollegium Musicumに繋がって行っているように思います。
リーダーであるPavolも3曲提供していますが、作曲面ではMariánへの依存度が圧倒的に高かったみたいですね。

子供の頃にピアノを弾き始め、ブラチスラヴァ音楽院を卒業した秀才のMariánですが、Prúdy時代は斜に構えたシニカルなキャラクターで売りたかったみたいです(笑
しかし、映像を見ると育ちの良さが出てしまっていて、あまり向いていなかったように思います(笑

ひねてみたい年頃です(笑

Collegium Musicumの2ndくらいまではヤンチャ路線で行っていたみたいです。
ま、21歳くらいの男なら誰しもやってみたくなることではありますね。
今回調べていて驚いたんですが、MariánはPavolより1歳年上なんですよね。
Pavolのほうが5歳くらい上だと思っていました(笑

「お嬢さん、お嬢さん」キャー!(笑

昔、このジャケが「女子高生の背後でコートをバッと広げる全裸のおっさんみたいだ」ってクロムさんに言ったら「結構カッコいいジャケだなぁ~って思ってたのに~」と怒られてしまった事を思い出します(爆笑

ベスト・ベースプレイヤーの1人です

Mariánのピアノ&オルガンと共にPrúdyの楽曲に色を添えているのが、Fedor Frešoのふくよかで艶のあるベースプレイで、音数は多いが前に出過ぎない、それでいて耳に残るFedorの演奏は非常に魅力的です。

また、陽気でお茶目なキャラクターで、グループのムードメーカー的な存在でもあったのではと思います。

変顔のベストプレイヤーでもあります(笑

変顔も絶品です(笑


「Zvoňte, Zvonky」リリース後、そのMariánとFedorが脱退し、同時期にレコーディングに顔を出していたDušan Hájek(Ds)らとCollegium Musicumを結成。
Prúdyのサイケデリック・イヤーズは終わりを迎えます。

これ以後も、Prúdyはひっきりなしにメンバーを取っかえ引っかえしながら、75年の解散まで活動して行くのですが、グループを通り過ぎて言った面々が、Collegium MusicumやFermataなどのスロバキアの名グループを結成していることから、PrúdyというPavol兄貴の元で、スロバキアの若いミュージシャン達が鍛錬を重ねる場のような側面もあったのかもしれません。

少なくとも、結果的にはね(笑


【“[Pavol Hammel A ] Prúdy (Czecho-Slovakia)”の続きを読む】 このページのトップへ


今回は、以前紹介した「チェコスロバキアの3つのレーベルについて」の補足になります。

上記の記事で、チェコスロバキア時代にSupraphon・Panton・Opusの3つのレーベルで
リリースされていたと書きましたが、チェコスロバキアのグループについて調べていると、「Discant」というレーベルからリリースされたレコードが、たま~に見かけます。

このDiscantは69年にチェコ共和国の東部地域の都市ブルノで設立された、国営でありながらインディペンデントでもあるという、非常にユニークな存在のレーベルです。
69~70年という短い期間ではあるものの、Synkopy 61・Atlantis・Progress Organizationなどのブルノ出身のグループ・ミュージシャンを中心に、さまざまなジャンルのレコードを活発にリリースしていました。

当時、ブルノでわざわざインディ・レーベルを立ち上げたのは、はるばるプラハまで行かなくてもすぐにレコードをプレスできることと、「プラハの春」以後のフサーク政権の「正常化政策」による、今後また厳しくなるであろう検閲をかわす目的があったみたいです。

「Bůh Lenosti(怠け者の神)」(Synkopy 61)・「Klíč K Poznání(知識への鍵)」(Progress Organization)・「Nonsens」(Atlantis)…と、Discantでリリースされたシングル・EPのタイトルだけでも、このレーベルの性格のある側面を伺うことができますね。

つまり、国民は決して「プラハの春」をあきらめ、「正常化」を支持したわけではなかったということです。

Discantは数十枚のシングル・EPをリリースしたものの、正常化政策による検閲が熾烈を極め始めた70年にわずか2年弱の活動を終えます。
音源の権利はSupraphonに吸収されたようで、破棄されなかったのが不幸中の幸いだったと言えます。




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