あるにもあらず 過ぐるわが身は

東欧・北欧・中近東など世界の60's Beat/Psych、その合間にコミックなどを紹介しています。 こっそりとやっていますので、こっそりとお越し下さいませ(笑 

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Klaus Renft Combo 1972:(L to R)Pjotr・Cäsar・Renft・Kuno・Jochen・Monster

今回は、ある事がきっかけで意外と有名な東ドイツのグループ、Klaus Renft Combo(74年にRenftとシンプルに改名)です。
Klaus Renft Comboは厳密には70年代のグループなのですが、60年代的な楽曲がいくつかあることと、東欧ロックを語る上で重大な事件に絡んでいることにより取り上げることにしました。

Klaus Renft Comboは、58年にKlaus Jentzsch(B)によってライプチヒで結成。
RenftというのはKlausの母親の旧姓だそうで、彼はこの時から芸名として使用し始めました。

62年、当局によって活動を禁止されました。
しばらくの沈黙の後、初期のKlaus Renft Comboのメンバーを中心に、Butlersを結成。
Butlersはいくつかの楽曲をAmigaで録音していますが、Shadowsっぽいインスト・グループでした。

Klausは、その時点ですでにシュタージにマークされていたようで、「放浪者」というコードネームでファイルに記載されていました。

65年11月、Butlersやその他のビートグループのあまりの人気を恐れた当局が、彼らを強制的に解散に追い込み、それに激怒したファンの少年たちが反対のデモを行い、当局が警察を動員して鎮圧するという騒ぎが起き、のちに「ライプチヒ騒動」呼ばれるようになりました。
ライプチヒ騒動におけるデモの鎮圧は、装甲車と放水車と警官隊で囲んでデモの少年たちを追い込んで、放水・暴行・シェパードを放つなど、凄惨極まるひどいものだったようです。

この事件をきっかけにビート・ミュージックへの徹底的な締め付けが行われ、Amigaでのロックの録音の禁止・ドイツ語以外のグループ名の使用の禁止などの厳しい規制によって、数多くいたビートグループの活動は縮小されていきました。
また、Amigaでの東欧共産圏のグループの録音もストップしたようで、東ドイツにおける65~70年のロック・シーンはほぼ空白になってしまいました。

そんな状況下の67年、Klaus Renft Comboの活動禁止が解除され、徐々に公共の場で演奏できるようになりました。
そのころからKurt Demmler、そして69年には反体制派のGerulf Pannachと、この2人の作詞家とのコラボでオリジナル曲を書き溜めて、ステージで演奏していました。

71年になると、指導者がウルブリヒトからホーネッカーに代わった影響で、東ドイツ当局の文化政策が柔軟になり、Klaus Renft Comboも初のラジオ・レコーディングを行いました。
この時期のメンバーはKlaus Renft(B)・Thomas "Monster" Schoppe(Vo.G)・Peter "Cäsar" Gläser(G.Vo)・Peter "Pjotr" Kschentz(G.Vo.Sax.Fl)・Michael Heubach(Key)・Jochen Hohl(Ds)の6人。

72年にはMichaelが脱退し、優れたソングライターでもあるChristian "Kuno" Kunert(Key.G.Vo)が加入して、この6人で解散まで固定したラインナップで活動していきました。

同年、国営レーベルAmigaでの初レコーディング。

73年夏、東ベルリンで開催された「第十回国際青年フェスティヴァル」というやたらお堅い名のイベントで、Puhdysらと共に華々しく登場。
同年にはAmigaから1stアルバムをリリースし、瞬く間に彼らの人気は高まっていきました。

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Klaus Renft Combo 1973:(左上から時計回りに)Kuno・Cäsar・Pjotr・Monster

当局の指示に従順に従ってこざっぱりとしたソフトなイメージだったPuhdysに対して、Klaus Renft Comboは小汚い格好で荒々しい演奏をしていたようで、使い古されたフレーズではありますが東ドイツのBeatles対Stonesのような存在だったようです。
僕の聴いた印象ではStonesというよりは、70年代初期のアメリカン・ロックに近い土臭い印象で、Puhdysの方がハードな印象でした。
また、PjotrとKunoの2人のマルチプレイヤー、CäsarとKunoのソングライターによって、幅広いサウンドと楽曲を得ることができたことは、現在の高い評価にもつながっていると思います。

余談ですが、彼らがライヴで回る時、バンではなく乗用車で機材を積んだ荷車をけん引して移動していたようです。
移動で最低6人は乗れないといけないためか、小型のトラバントではなく旧ソ連製のGAZ 21 Volgaを使用していました。
当時の東ドイツでは、一般市民はなかなか自家用車を持つことができず、所有できても国産のトラバントだった中、ソ連製とはいえ大型の輸入車を所有していたことでも、彼らが人気があり特別扱いを受けていたことがわかります。

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「Rund」出演時

74年にはRenft名義に変更し、2ndアルバムをリリース。
TV番組Rundにも出演し、パワフルな演奏を残しています。

ファッションや演奏に関しては当局の言う事を聞かなかった彼らですが、それでも初めのころは「Wer Die Rose Ehrt」などの当局の意向に沿った曲を演奏していました。
しかし、絶大な人気を受けて徐々に尊大になって行き、自分たちが何をやっても当局は手を出してこないだろうと思い込むようになり、どういう国で生活しているかを見失っていきます。

Renftの7人目のメンバーとも言える、作詞家Gerulf Pannachの反体制的なスタンスが大きく影響したようで、彼らは東ドイツの政治的なタブーを織り込んだ詞を持つ曲を作ってしまいました。

それが「Glaubensfragen」と「Rockballade Vom Kleinen Otto」の2曲で、前者は徴兵の強要し、それに抵抗する人を投獄することを批判、後者はハンブルグへ脱出しようとしたオットーが逮捕され、絶望の末に身投げ、「そして多分彼の身体はハンブルグに浮かび上がるだろう」という内容で、
この2曲を知った当局はもちろん激怒しました。

1975年9月22日、Renftはライプチヒの文化委員会の命令により出頭。
当初彼らは楽曲・演奏の検閲だと思っていたようですが、文化委員会の議長ルース・オエルシュレーゲルが来たことで、よからぬ気配を察したようです。
オエルシュレーゲル女史は、彼らに文化委員会としての見解を述べた後、「我々は、ここにRenftというグループは存在しないものと宣言する。」と宣告しました。
カセットテープによって偶然残された録音には、続けて以下のようなやり取りがありました。

Kuno:俺たちの活動を禁止するということか?
Oelschlegel:私はあなた達の活動を禁止するとは言っていません。我々の見解では、あなたたちはもはや存在していないのです。
Klaus:だが、俺たちはここにいる。
Oelschlegel:グループとしてです。

ここで他の委員会のメンバーに、強制的に会話を制止されて解散、そして後日、手紙で「解散したとみなす」という通告を受け取りました。

こうしてRenftは活動停止の憂き目にあったわけですが、話はもう少し続きます。

76年1月にライプチヒ協議会に召喚された後、Klausはギリシャ人の女性と結婚して西ベルリンへ移住。

そして76年11月、GerulfとKuno、そして彼らの友人の反体制派の作家Jürgen Fuchsの3人がシュタージに逮捕されました。
9か月にも及ぶ過酷な尋問の末、77年8月に西ベルリンに追放処分になりました。

最初に述べた「重大な事件」と言うのが、シュタージによるGerulfへのある行為なのです。
彼は98年に、「非常に珍しい癌」で亡くなったのですが、近年に公開されたシュタージ関連の情報によると、なんと尋問時にGerulfに向けて放射線照射装置を向けていたそうで、彼を含む、同時期にぶち込まれていた有名人反体制派3人が同じ癌で亡くなっているのです。


旧東欧圏ではこうした反体制派に向けたひどい迫害や仕打ちが、各国で当たり前のようになされていました。
チェコのPlastic People Of The Universeなんかも有名ですね。

Monsterも78年に西ベルリンへ移住。

残されたメンバーCäsarとJochenは、76年4月にKarussellを結成。


Puhdysと並んで絶大な人気を誇り、国内でLP20万枚・シングル3万枚を売り上げたRenftは、75年の事件によってバラバラに分解されてしまいました。

ベルリンの壁が崩壊した後、90年代に入ってからRenftは再始動し、オリジナル・メンバーはMonster一人になってしまいましたが、現在でも活動を続けています。

なお、Pjotrは05年、Klausは06年10月、Cäsarは08年10月に亡くなっています。



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コメント

レンフトは1stと2ndを聴きましたぁ~!あっ、私の1st、ボートラついてない・・・。2ndにはついてるのに~。さすが、Grahamさんのリサーチは毎度完璧ですね!
このメンバーの表情だけで、私はもうジャケ買いしたくなっちゃうんですよね~(笑)。
個人的には、言葉の意味がわからなくても、魂が込められていれば、その本質は十分伝わるハズ!と思ってはいるのですが、東側諸国については、やっぱり歌詞は重要な要素ですよね~。このバンドも音だけ聴いてたら、たぶん反体制だとはわからなかったと思います。
ちなみにPuhdysは私の印象では、体制との折り合いはつけつつ、Olympicほどではないにしても、それなりの気骨も併せ持っていたバンドという感じを受けます。音楽的に特別目立ったことをしてるワケではありませんが、何となく「ただのお利口さん」にはなりきっていない雰囲気が漂ってるんですよね~。
それにしても、放射線照射とは・・・!!癌との因果関係って、いくら限りなくあやしくても完全な立証は不可能でしょうから、このまま不都合なことには触れずに歴史は流れていっちゃうのでしょうか?こうした事実を忘れないことも、レンフトの音楽を聴く大事な意義の1つだと思ってます。

  • 2009/12/22(火) 20:45:55 |
  • URL |
  • クロム #ybSqUg1.
  • [編集]

かの本を読んでから、気になっていたグループです。
ジャケットもAmigaらしいデザインで雰囲気ですよね。
タイトルを翻訳しただけですが、この時期はわりと身近な事を取り上げているみたいで、あまり政治的な要素はなかったみたいですね。
ま、その中に社会主義賞賛なメッセージを織り込んでいたのかもしれませんが(笑

Puhdysもいずれ聴いてみようとは思っています。
てか東欧ロックを聴く上で、東ドイツものではこの2グループは聴いておかないといけませんね。

もうホーネッカーもミールケも故人になってしまったし、シュタージの残したパンドラの箱を開いたころには、追及する相手が全員死んでるんでしょうね。

しかし、Renftも音楽以上にそっちの方で有名になってしまったのは、非常に不本意かもしれませんね。

  • 2009/12/23(水) 18:16:30 |
  • URL |
  • Graham #rB4BsSMs
  • [編集]
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