あるにもあらず 過ぐるわが身は

東欧・北欧・中近東など世界の60's Beat/Psych、その合間にコミックなどを紹介しています。 こっそりとやっていますので、こっそりとお越し下さいませ(笑 

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前回に続いて、エストニアのビート/サイケのコンピレーションを紹介していきます。
今回は前回のものよりマニア向けの内容になります。


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V.A./Biit Piraadid (エストニア Rampade Org Ramp001)`06

1.La La La Laul /Optimistid  
2.Kõik Uueks Saab[Sa Teed Kõik Uueks] /Omega
3.Suddenly You Love Me /Omega *
4.Kui Sind Ma Leidsin /Vello Salumets & Jaak Joala *
5.Ära Süüdista Saatust /Kogudus
6.Eemale Linnakärast /Andromeeda *
7.Boogie /Optimistid *
8.Kui Ainult Kord /Kristallid *
9.Küll Olid Päeval Pikad Rajad /Kristallid *
10.Surmast Tugevam /Credo *
11.Kaarik /Omega (Tallinn) *
12.Jalgrattal Sõidan /Toomapojad
13.Vana Auto /Peoleo
14.Beat /Mikronid *
15.Sipelgad /Kristallid *
16.Vesiviiul /Andromeeda *
17.Sügis /Mikronid
18.Langeb Lund /Andromeeda
19.Adjeu Sholi Condier /Toonika *
20.Lahkumise Tund /Lüürikud
21.No Milk Today /Omega *
22.Paljasjalgne Munk /Virmalised *
23.Hei Liis /Ivo Linna *
24.Närvid Läbi /Omega

*・・・前回紹介した2種のコンピと被っていない曲

こちらは前回紹介したコンピと傾向が近い、放送局録音の音源を収録していますが、これにしか収録していない曲が多いので、けっこう外せないコンピです。
ライナーはペラペラではなく、録音年表記はないもののクレジットが詳細に書いてあり、各グループの写真と在籍したメンバーが掲載されていて、前回のコンピよりは遥かに充実したものになっています。

ただ、既に廃盤になっており、入手は難しいのが難点です。

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V.A./Biit Piraadid 2 (エストニア Rampade Org Ramp002)`07

1.Väike Peeter /Mikronid
2.Ühiselamu /Kogudus
3.Instrumentaal Märt Kõrgema Juhatusel /Lüürikud
4.Ma teen, mida võin /Kristallid
5.Fire /Omega
6.Dark eyes /Omega
7.Paint it black /Omega
8.I'm a king bee /Mikronid
9.Jaan läheb jaanitulele /Optimistid
10.Kas sa kuuled /Kristallid
11.See kurvaks teeb /Kristallid
12.Fever /Poppojad
13.Kiigelaul /Poppojad
14.For my women /Poppojad
15.Cuore matto /Poissmehed
16.I can't let go /Virmalsed
17.Friday on my mind /Virmalised
18.Walking on the beach /Virmalised
19.You were on my mind girl /Virmalised
20.Nimetu sõbratar /Müstikud
21.Heart of stone /Korallid
22.Mul on kahju /Korallid
23.Minge magama /Virmalised
24.Troika /Omega

25.interview /Maria Elena /Juuniorid(secret track)

上記のコンピの第2弾で、こちらの収録曲は今までの3種のコンピと全く被らない内容で、放送局録音(1~9)と68年のKosmos Cinemaでのフェスの実況録音(10~19)、そしてグループのプライベート録音(20~24)という組み合わせの、貴重な音源満載のレアリティーズです。
Optimistidの前身と言えるインスト・グループの25は、24の後のしばらくのタイムラグ後に収録されたシークレット・トラックで、コンテストに出演の際に収録されたプライベート録音らしく、おそらくエストニア・ビート最古の録音と思われます。
よく残っていたなぁ(笑

海外でも販売することが念頭にあったのか、ライナーは英文で書かれており、相変わらず録音年の表記がないものの記述自体は詳細で、収録グループの簡単な紹介も書かれていて参考になります。

あと、何と言っても、ジャケの絵が怖いです(笑

これは現状(17年2月現在)では新品があるようです。

ちなみに、今回紹介した2種は基本60年代ものなので、ハード・プログレのファン向けではないと思います。

前回紹介した2種と合わせて合計4種、これだけ揃えばエストニアのビート/サイケの概要を知ることができると思います。


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今回は、エストニアのビート/サイケのコンピレーション2種を紹介します。

1944年~1991年の間、エストニアはソ連の共和国として強引に取り込まれていました。
つまり、基本的には国家公認のグループであるVIA以外は、レコーディングしてレコードをリリースしたり、利益を得るライヴの開催を禁止されていたわけです。
それに、ソ連のロック史本「ゴルバチョフはロックが好き?」や東欧共産圏のロック史本「自由・平等・ロック」によれば、当時のソ連内の若者は高価なオープンリールテープを、西側のロックのレコードをコピーするために使い、自分たちで結成したグループの演奏を録音して保存するという概念がなかったため、当時のロックの録音はほぼ皆無だとありました。

僕自身、これらを読んでそういうものだと思い込んでいたのですが、去年の冬に友人がDiscogsでウォントに入れていたアイテムの中に、エストニアのコンピレーションを発見しました。
たぶんVIAの音源をまとめたものだろうと思っていたのですが、収録曲をつべでチェックしてみると、VIAよりも遥かに西側に近い演奏で、しかもオープンリールのプライベート録音にしてはやけに音質が良い。

Мелодия録音ではない、当時ソ連内の国の60~70年代のコンピレーション…。
ここ数年でも最高の驚きでした。

すかさずエストニアから引っ張って、聴きながら詳細を調べて行くと、エストニアでは他のソ連構成共和国とはかなり状況が違っていました。

まず、音質がわりと良いのは、エストニアのTV・ラジオ局のスタジオでレコーディングされていたからでした。
レコード・デビューしていない非公認のグループの楽曲をこういう形で録音するというのは、基本的にはソ連内ではほとんど認められておらず、エストニアでのこれらの録音には本当に驚かされてしまいました。
東欧諸国では、レコード・デビューの試金石のような形で、未契約のグループの録音をして放送することはあったようなので、それに近い形だったのだと思いますが、それにしても当時のソ連での状況を考えると、大胆だなあと思ってしまいます。

ただ、多少当局の琴線に触れないように気を配っていたようで、特に71年くらいまではヘヴィで荒削りな演奏を録らないようにしており、あんまり荒っぽい楽曲は残されていません。

また、プライベートでも自分たちのグループの録音のデモを残していたりするのも、他のソ連内では少なくとも60年代にはほとんどなかったことでした。

あと、利益を得るライヴもほとんど黙認されていたようで、68年にはタリンで初のロック・フェスがおおっぴらに開催されてまでいます。
他のソ連内でも、役人に袖の下を渡してライヴをやっていたグループはいたようですが、調べた範囲ではエストニアではそういうことも基本的にはなかったようです。

エストニアでは、ソ連に侵略されて取り込まれたことに対する反抗心が根強かったそうですから、こういうことにもそれが現れたのかも知れません。

しかし、前述のタリンのフェスの後くらいから、当局が口を出すようになったようで、VirmalisedVäntorelのように、意に沿わないグループは活動を制限されたりするようになりました。
おそらく、66年にラトヴィアのリガで、Melody Makersのライヴを中止したことによる騒ぎが起きたことで、当局がエストニアの状況にも目を向けるようになったのではと思われます。

それでも、放送局での録音が後年まで(少なくとも76年くらいまで)続けられたようで、ソ連内だということを考えると驚くほどの多くの録音が残されています。
76年以後から、国家公認になってライヴを行い、Мелодияでレコードをリリースするグループが増えているので、その時期に何かの動きがあったのかなと思います。

エストニアのロックは、ビート感よりもメロディの美しいポップな曲が多く、対岸にあるフィンランドの放送を試聴して、レパートリーを見繕っていた関係もあるのか、北欧のシーンに近い印象があります。



【“エストニア・ビート/サイケのコンピ(その1)”の続きを読む】 このページのトップへ

Virmalised Early Years:(L to R)Kalju・Paavo・Toivo・Ülo・Toivo Karetnikov


今回は、Optimistidと共にエストニア最古のビート・グループで、そして最も素晴らしいグループの一つといえるVirmalisedを紹介します。

Virmalised(エストニア語で「オーロラ」いう意味)は、タリン第39高校の生徒Toivo Kurmet(Vo.G.Key)を中心に65年の秋に結成、Virmalisedという名義を使うようになったのは66年2月頃だそうです。
結成当初のメンバーは、Toivo・Paavo Soots(G.Vo)・Kalju Oppi(B.Vo)・Toivo Karetnikov(Vo.Tb)、そしてToivoの弟Ülo Kurmet(Ds.Vo)の5人編成。
ÜloはToivoより4歳年下だったので、当時12歳!

当初はラジオ放送で聴いていた、Beatles・Kinksなどの西側のロックを演奏するために始めたそうですが、活動するうちにプロを志すようになり、67年ごろからToivoは自作曲を書き始め、グループは演奏レベルを上げるために練習に励みました。
Toivoの家族は、そんな彼らの活動を応援しサポート、父親はデモの録音やグループの財務を、母方の祖母は彼らの初代マネージャーだったそうです。

結成時期がほぼ同時期のOptimistidとはよく比較されたようで、VirmalisedはBeatles、OptimistidはRolling Stones的…のような、よくある感じで(笑
もっとも、当初は両グループ共に西側の曲のカバーをしていたものの、Virmalisedはすぐにオリジナル曲中心になり、グループとしての評価は彼らの方がダントツ高いです。

68年に入ると、グループは大きな転機を迎えました。
同年4月、エストニア初のビート・フェスがタリンのKosmos Cinemaで開催され、VirmalisedもPoppojad・Kristallidらと出演。
彼らはフェスのトリを務めてカバーとオリジナルを交えて演奏、聴衆を熱狂の渦に巻き込み、Virmalisedの名前は一気に知名度を上げていきました。

しかし同時に、エストニア共産党中央委員会にも、その熱狂の様子が耳に入っていたのでした。

68年夏、自らのグループを結成するためにKaljuが脱退、Kosmos Cinemaでのライヴで共演したKristallidのベーシストで、優れたシンガーとして既に注目を集めていたJaak Joala(Vo.B)が加入。
具体的な記述が見つからないのですが、Toivo Karetnikovもほぼ同時期に脱退しているようです。

68年秋、ミュージカル「Pofibo Revüü」のエディターJüri Linaの手配によって、彼らはエストニアン・ラジオで初のレコーディングを行い、「Üksinda」「Ainult Sul」「Siis Sulle Meenub」の3曲を収録しました。

ToivoとJüriは春には知り合っていたようで、二人は意気投合し行動を共にすることが多くなり、以後Toivoが亡くなるまで…いや、ある意味現在に至るまで親交を保ち続けています。

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Jüri & Toivo In early spring of 1968,
タリンの市庁舎広場前にて


Virmalisedを語る上で、Jüri Linaは非常に重要な存在なので、簡単ではありますが紹介しておきたいと思います。

JüriはToivoと同じ1949年生まれの、エディター・ジャーナリスト・作家で、68年にToivoと出会って親友同士となって、Virmalisedが解散するまで影に日向に関わって行きました。
その過程で当局に目をつけられてしまい、KGBと激しい対立を繰り返した末、75年にはジャーナリストの活動を禁止され、79年まで夜間監視員として働いて凌いだ後にスウェーデンに亡命。

現在もストックホルムに在住し、作家・ジャーナリスト活動を続けています。
また、Referentレーベルを立ち上げて、VirmalisedとToivoの楽曲のリリースも手がけています。

その経歴でよくわかると思いますが、筋金入りのアンチ・コミュニストで、メールでやり取りした印象では、基本穏やかだがストイックで頑固者でした(笑
もちろん、そうでなければあの厳しい時代を乗り越えることができなかったんだろうなと思います。
メールで、彼はToivoとその音楽をとても愛していて、世界中で彼の音楽が聴かれることを望んでいると言っており、日本の音楽ファンにも彼の曲を聴いて欲しいと言っていたのがとても印象的でした。


68年11月、Jaakが脱退し、Mati Timmermann(B)が加入。
Jaakは以後は基本ソロとして活動して行きますが、Virmalisedの69・70年のレコーディングにも参加しています。

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Virmalised 1969:(L to R)Mati・Ülo・Paavo・Toivo

69年11月、ToivoはKGBの尋問を受け、以後Virmalisedはコンサートをする場所の制限を受け始めました。
ミュージシャンとしての生命線に手をかけられるようになったToivoは、ソ連当局の圧力に抗うようになりました。

そんな状況に気を揉んだJüriはラトヴィアのリガに飛び、ソ連の国営レーベルМелодияと、Toivoの曲を収録した2枚のEPをリリースする契約を結びましたが、直後に当局から却下されてしまいました。
Jüriはとにかくレコードをリリースさせて、当局にToivoを作曲家として認めさせて、Virmalisedが活動しやすいようにと考えての行動でしたが、土壇場で当局にひっくり返されてしまったわけです。

そして、そのことが仇となり、今度はJüriにも矛先が向かって行くことになりました。

こういった経過のせいか、70年代に入ってからのVirmalisedの資料はとても少なくて、大まかなことしかわからないのですが、わかる範囲で書いて行きます。

ほとぼりが冷めた?72年4月、彼らはETVの番組に出演し、その優れた楽曲と演奏は大きな評判を得ました。

この頃から女性ヴォーカリストを加えており、詳細な時期や同時に在籍していたのかは不明ですが、72~75年の間にSilvi Juhansson(Vo)・Melike Amjärv(Vo)の2人を加入させています。
もしかしたら、ソ連公認グループのVIAっぽい編成にして、当局の監視を和らげたいという思惑もあったのかもしれません。

また同じ頃、一時期ベーシストが不在だったようで、Toivoがベースとキーボードを担当していたようです。

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Virmalised Early 70`s:(L to R)・Ülo・Toivo・Silvi?・Paavo

この写真でToivoが弾いているのはチェコスロバキア製のJolana Tajfun Bassで、Paavoが弾いているのは東ドイツ製のMusima Eternaです。

73年ごろにÜloが脱退したようで、元Pop-PojadのAnts Kasesalu(Ds)と元ラプラのOmegaのMati Vaarmann(B)が加入。
ToivoとPaavoとの4人編成で、「Suve Hääl」のクリップが製作されています。

75年に公開された映画の1シーンで、Jüriが目をかけていたもう一つのグループMikronidの演奏をバックにSilvi Juhanssonが歌っているのですが、なぜか楽曲がVirmalisedの「Hei,Hei,On Hea,Et Niigi Meil Jääb」で、真相はよくわかりませんが謎の場面です。

おそらく、TV番組や映画のMikronidの場面の曲などの手配はJüriの手際によるものと思われます。

彼がそういう活動を禁止された75年以後、Virmalisedにも創作活動に厳しい制限を加えられたそうで、それ以後に残された楽曲が1曲だけでした。

そして77年、グループは解散しました。

Jüriに続き、エストニアからの移住を余儀なくされたToivoは、79年の秋に海外に住むエストニア人と結婚してスウェーデンに移住。
Jüriと共にVirmalisedのレコードをリリースしたり、創作活動を続けて行きました。

エストニアが再び独立した90年、Toivoは自国に戻ってビジネスを始めましたが、大きなトラブルがあったようで、その後ずっとそのことに悩まされ続けた結果、03年6月にラプラの病院で息を引き取りました。
享年54歳の若さでした。

さらに16年6月、Toivoの弟Üloも亡くなっています。


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Kogudus 1972:(左上から時計回りに)Jüri・Peeter・Toomas・Ants


今回は、70年代初期の旧ソ連時代のエストニアのグループの中でも、個人的にベスト5の一つと思っているKogudusを紹介します。

Kogudusとはエストニア語で「教会」という意味で、71年6月、エストニアの第2都市タルトゥで結成。
オリジナル・メンバーは、タルトゥ大学の学生だったJüri Elken(B.Key.Vo)・Ants Matiisen(Ds.Vo)・Toomas Taul(G.Vo)・Peeter Väljak(Vo.G)の4人で、後年交代したメンバーも含めて、彼らの故郷の南部の港湾都市ペルヌで活動していた3つのグループ、Nemo(Jüri・Toomas)・Syrius(Jüri)・Viking(Peeter)に在籍したメンバーを中心に編成されていました。
彼らはTrafficのように、同じアパートの部屋で共同生活を送りつつ、タルトゥ大学のクラブのパーティーなどで演奏。

そんな彼らの評判を聞いてか、72年5月、ETV(エストニアTV)のスタジオで初のレコーディング。
5月9~11日の3日間にかけて行われたセッションには、元Väntorelのリーダーで、かつてVikingにも在籍していたAndres Valkonenが参加、そしてレコーディングの前日に運悪く40度の高熱を出して演奏できなかったJüri Elkenの代わりに、Andresの弟Jüri Valkonenがベースをプレイし、彼らのオリジナル5曲が収録されました。

また、このセッションが後のU.D.Aの結成を匂わせているのが興味深いところです。

同年6月には、エストニア、そして当時のソ連内で初のオープン会場のフェス、エルヴァ・ソング・フェスティヴァルにFixらと出演し、スタジオ音源に比べて幾分ワイルドなその演奏に聴衆は熱狂しました。

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Kogudus live in Elva Song Festival 1972

11月にドラムスのAntsが脱退し、彼らの源流の一つNemo、そして一時期Fixにも在籍したValdur Tamm(Ds.Vo)が加入。
73年に入って、演奏面の強化のためかNemo・Vikingに在籍したRao Laidsaar(Key.Vo)が加入。

しかし、74年に入った頃にはメンバー間の音楽性が分かれるようになり、再びETVで録音を残すものの、同年3月に解散。

Peeter VäljakはFixに76年まで在籍し、Kogudusの同僚Jüri ElkenとRao Laidsaar、そしてAndres ValkonenらとU.D.Aを結成しています。

そして2013年6月23日、ヘルシンキの自宅のTVの前で、椅子に座ったまま亡くなっているPeeterを家族が発見。
検死の結果、おそらく7月10日頃に亡くなったのではと言うことです。
62歳の若さでした。


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New Soulmen 1968

今回は以前書いたBeatmen/Soulmenの記事の続きで、Dežo Ursinyのアートロック期70~73年を紹介したいと思います。

Soulmenのあっけない解散がよほど悔やまれたのか、Dežoは同年夏にまた新グループを結成。
その名も「New Soulmen」(笑
「そのまんまかよ!」と思ってしまいますが、DežoのSoulmenへの執念を感じさせますね。
メンバーはDežo(Vo.G)・Fedor Letňan(B.Vo)・Peter Mráz(Ds)、そして後にModusに参加するJán Lehotský(Key)の4人。
結成してすぐにラジオ用に2曲をレコーディング。
Soulmenよりも少しサイケ度が上がり、フリーキーな印象に変化しています。

しかし、ライヴもしないうちにグループはあっけなく解散。
68年の夏といえば、プラハをソ連の戦車が蹂躙した頃。
当時のチェコスロバキアでは、その影響で無気力になったり鬱になったりする人が続出したそうですが、彼らもまたそうなってしまったそうで、解散と言うよりは自然消滅という感じだったようです。
ただ、New Soulmenでの短い活動は、彼の次のステップへのきっかけになったのは幸いでした。

70年、Dežoは元Blues FiveのJaroslav Filip(Key)と、Marcel Daniš(B)とSoulmen時代の盟友Vlado Mallý(Ds)の4人でProvisoriumを結成。
New Soulmen時代のサイケ路線を発展させたような、R&Bとジャズを根っこに持つアートロック/プログレ路線を展開させていきます。
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Provisorium 1970 :(LtoR)Vlado・Jaroslav・Dežo・Marcel

しかし、72年6月にSupraphonでのアルバムのレコーディングが決定したものの、その直前にグループは崩壊。
Dežoと残ったJaroslavは、Flamengoにバッキングを依頼してレコーディングを無事完了させ、アルバムは73年にリリースされました。

その後、DežoはProvisoriumとBurčiakというバッキンググループ名を使ってソロとして活動していき、10枚強のアルバムを残し、95年にガンで亡くなっています。

CD紹介はまた後日。



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    翻訳・編集に時間がかかるので更新は激烈にスローです(笑
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